京とおうみ自然文化クラブ

「京(みやこ)とおうみ自然文化クラブ」は、認定NPO法人シニア自然大学校の京都府・滋賀県の地方組織です。 旧ブログは左下リンク集より閲覧できます。

 公開講座

公開講座 2月16日(月)「秀吉兄弟が造った京都ゆかりの地」の報告

 2月16日(月)午後1時30分より、地下鉄烏丸線・丸太町駅すぐのハートピア京都にて、(株)らくたび代表の山村純也氏による公開講座「秀吉兄弟が造った京都ゆかりの地」が開催されました。会場は広く交通の便もよく、またテレビ出演も多い山村先生によるタイムリーなテーマということもあり、参加者は会員66名、実習生23名、一般参加10名の計99名と大盛況でした。
 昨年8月に開催した公開講座「べらぼうの時代と京都の花街」が大好評だったことから、今回も山村先生にご登壇いただき、今年のNHK大河ドラマにちなみ、豊臣兄弟と京都をテーマにお話しいただきました。京都観光に携わる者として、ドラマをきっかけに多くの人が京都を訪れることを楽しみにしているとのことでした。講演はスライド映写を用い、配布資料に沿って進められました。
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以下、講演内容の概要です(紙面の都合により要点を抜粋して記載します)。
【秀吉と京都の関わりの始まり】
 放映中の大河ドラマのストーリーを導入に、歴史的な流れが解説されました。農民という低い身分から出発した兄・秀吉と弟・秀長が天下統一へと歩む物語は魅力的ですが、講演は次第に「秀吉と京都の関係」に焦点を当てていきます。
 順調に出世した秀吉は、足利義昭を奉じて上洛した織田信長の命を受け、京都の治安維持や政務に関与します。これが秀吉と京都の最初のつながりです。その後、山崎の合戦を経て織田家中での地位を固めます。あまり知られていませんが、山崎の合戦で戦略上重要となった天王山に、戦後築いた山崎城が秀吉による最初の「京都の城」となります。さらに洛中に妙顕寺城を造営し、政権の拠点としました。以後、政権基盤を固めながら、本格的に京都に足跡を残していくことになります。
【秀吉の京都における土木・建築事業】
• 聚楽第:広大な敷地を持つ平城で、金箔瓦や金碧障壁画で飾られ、天皇の行幸も迎えました。京都  の中心に壮麗な城を現出させましたが、遺構がほとんど残っていないのが惜しまれます。
• 町割りの変更:従来の正方形の区画を短冊形に改めました。京都発展の基盤となったと評価されています。
• 寺町通の形成:町割り変更に伴い移転を余儀なくされた寺院を鴨川沿いに集め再配置しました。本能寺や廬山寺など多くの有名寺院も移転しました。
• 京都新城:京都御所を修復するとともに、御所南に京都新城を築きました。仙洞御所内での発掘調査で遺構が確認されています。
• 御土居:洛中と洛外を区分する土塁として整備されましたが、目的には謎も多く、遠回りを強いられたため評判はあまり良くなかったようです。現在まで残る部分はわずかです。
• 伏見城・淀古城:交通の要衝である伏見に二度、壮麗な城(後月城、木幡城)を築き城下町を整備し、政治の拠点としました。淀古城は側室・茶々の産所として築かせたものです。いずれも当時の建物は残っていません。
【豊臣一族に関わる施設】
• 大光院:秀長の墓はかつて大和郡山の菩提寺にありましたが、家臣・藤堂高虎により大徳寺塔頭の寺院内に移築されました。京都に残る秀長ゆかりの数少ない遺構です。
• 高台寺:正室・ねね(北政所)が秀吉の冥福を祈るため建立しました。
• 東寺金堂、北野天満宮本殿など:息子・秀頼の寄進により多くの寺社が修復されました。
【秀吉の文化面での貢献】
• 茶道:北野天満宮での大茶会は大規模なイベントとなり、千利休を重用して茶の湯の普及に努めました。
• 能:自ら舞台に立つほど能に傾倒し、能の形式確立と発展に大きな影響を与えました。
• 美術:狩野山楽らの絵師を登用し、金碧障壁画など豪華絢爛な美術を城郭や寺院に展開し、安土桃山文化を発展させました。
• 宗教:方広寺を建立し、都市の守護と信仰の象徴としました。かつては巨大な大仏がありました。豊臣家滅亡の原因になった梵鐘は現存しています。
【伝説的なエピソード】
京都に残る秀吉ゆかりの伝説も紹介されました。項目のみ記します。
  • 湯たくさん山茶くれん寺(浄土院)  • 鳴虎図(報恩寺)
  • 白川石仏(子安観音)         • 手取釜(良恩寺)
【近代・現代における秀吉像と影響】
 豊臣のイメージは江戸幕府による抑圧を経て、明治期に再評価されました。現在、秀吉に関わる業績は京都の都市構造、文化、伝説、そして観光にまで深く影響を与えていることが述べられ、講演は締めくくられました。
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(写真はクリック/タップで大きく表示されます)
 今回の山村氏の講演は、豊臣秀吉とその一族の京都との関わりという視点から、現代の京都の町や文化を見つめ直す機会となりました。閉会にあたり、澤田会長より「面白く、おかしく、また詳しく説明いただいたことに感謝します」との挨拶があり、盛会のうちに終了しました。   (文/岸本) 

公開講座 8月6日(水)「べらぼうの時代と京都の花街」の報告

 連日の猛暑の中、8月6日(水)午後1時半からひと・まち交流館で(株)らくたび代表の山村純也氏による公開講座「べらぼうの時代と京都の花街」が行われました。参加者は会員49名、一般13名の計62名と盛況でした。

 山村氏によれば、らくたびは創立後今年で20周年を迎えた。京都をテーマに各種ツアーを企画・実施しているが、集客には大河ドラマの上半期が重要で、昨年は「光る君へ」でヒットしたとのこと。講演は配布資料に沿って行われました。
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以下は講演の内容です。
 蔦屋重三郎が存命の時代の江戸では徳川家重(9代)、家治(10代)の下で老中・田沼意次が、一方京都では京都所司代の下で町奉行が統治していました。この頃、江戸では幕府公認の遊郭である吉原が賑わっていましたが、吉原名物といえば馬肉料理。客が遊び過ぎて金欠病になり、乗ってきた馬で払ったことに由来しているのは面白い話です。一方、京都では六花街が京文化の一翼を担っていましたが、昭和に最初の官許の廓である島原がなくなり、現在は祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒の五花街が残り、それぞれに技芸発表の舞台(〜をどり)を持っています。
【現存する五花街】
祇園甲部(こうぶ); 京都最大の花街で八坂神社門前の茶屋街として発祥したが、明治14年に祇園町が甲部と東に分割されました。祇園の中では最も格式が高いお茶屋の一力亭が有名。4月に「都をどり」がある。
祇園東; 八坂神社門前町として発展。明治の分割で花見小路東側一帯が祇園東となりました。 11月に「祇園をどり」がある。
宮川町; 鴨川東岸の四条通から五条通の間に位置し、その名は八坂神社の祇園祭で神輿洗いが行われる鴨川下流を宮川と呼んだことに由来。16世紀後半、鴨川の河原に茶屋町として発展しました。4月に「京おどり」がある。
先斗町; 鴨川と高瀬川に挟まれた南北約500mの細長い通り。江戸時代初期に町並みが整備され、水茶屋が設けられたのが始まりで、祇園と並ぶ花街として発展しました。5月に「鴨川をどり」がある。
 現在の先斗町歌舞練場は、木村得三郎の設計で昭和2年に完成。外壁の上部は西洋風のタイル、下部は日本の土蔵などで使われる「なまこ壁」のようなデザインで、当時「東洋趣味を加味した近代建築」と賞賛された。山村氏からは写真で内部の様子を紹介していただきました。
上七軒; 室町時代の北野天満宮修復の際、残った木材で七軒の茶店が建てられ、参詣する人が休息に立ち寄る「七軒茶屋」として始まった。豊臣秀吉に我が国初の公許茶屋として認められました。老舗和菓子店「老松」もここで創業。3月下旬~4月上旬に「北野をどり」がある。
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(写真はクリックで大きく表示されます)
【島原について】
 秀吉が認めた我が国最初の花街で正式な地名は「西新屋敷」。当初は「二条柳町」にてスタートし、その後、東本願寺の北側にあたる「六条三筋町」で栄えていましたが、寛永17(1640)年、市街地整理のために現在地へ移転しました。あまりに急な移転命令に、天草四郎の一揆「島原の乱」の混乱ぶりと似ていたので、『島原』と呼ばれるようになりました。西本願寺の北、花屋町通を西へ進み、島原の入口に建つ島原大門は遺構のひとつ。
 島原の遊女の最高位「太夫」は、歌舞音曲、茶道・華道・和歌・俳諧などに秀で、高い教養を身に付けて、江戸中期には京都文化の中心的役割を果たしていましたが、中でも有名だったのは吉野太夫。ちなみに、花魁(おいらん)は江戸の吉原で人気を博した高級遊女、太夫は京都の島原で、芸事に秀でた最高位の遊女を指します。そのほか島原ゆかりの人物として夕霧太夫(後に大阪・新町の太夫に)、俳句と南画の与謝蕪村、尊王攘夷運動の久坂玄瑞がいます。
 祇園、上七軒の花街が裕福な町衆に支持されたのに対し、島原を贔屓にしたのは大名や公家、京の治安維持にあたった新選組の隊士でしたが、東京遷都によって公家がいなくなり大きな痛手を受けました。現在は旧置屋で唯一営業中の輪違屋(わちがいや)と旧揚屋の角屋が「角屋もてなしの美術館」として残っています。
【京都に発展した遊郭】
・五条楽園; 五条会館周辺のお茶屋や置屋の建物が残る。
・三本木; 南北に走る東三本木通を挟んで鴨川や東山を眺める風光明媚な場所にあった。後の木戸孝允の妻となる名妓・幾松が知られる。
・橦木(しゅもく)町; 伏見区の京街道と大津街道の分岐点近くにあり江戸前期が全盛期であったが、後期には中書島に奪われて衰退した。
・五番町; 北野天満宮や愛宕山参詣者の茶屋。水上勉の小説「五番町夕霧楼」で知られる。
・橋本; 石清水八幡宮参拝者の宿場などがあった。
・下河原; 京都東山、高台寺近くに位置した花街。明治時代に祇園甲部へ吸収合併された。

 本日は山村氏から筆者の知らない世界の京都の花街について、盛りだくさんの興味深い話をお聞きすることができました。閉会の際、澤田会長から来年2月の公開講座もお願いされたので楽しみにしています。 (文/讃良)

公開講座(よもやま話)2月17日(月)「はっぱといもむし~京都府立植物園で見た生きもののつながり~」の報告

 翌日から寒波が予想されていましたが、当日は最高気温7.4.℃という比較的穏やかで午後1時30分から「ひと・まち交流館」で公開講座が行われました。参加者は会員28名、一般参加4名の計32名でした。多数の参加有難うございました。
 講師は当クラブ会員の「岡かおる」さん。岡さんには研修会での植物観察案内でもお世話になっております。また野鳥の会、森林インストラクタ-、自然保護活動など幅広く活動されておられます。記憶に新しいところでは2022年5月に「風呂敷の中の自然観察」と題して楽しく役に立つ風呂敷の利用方法などのお話をしていただきました。
 そして今回のテーマは「はっぱとイモムシ」です。ご承知の通り昨年9月に京都府立植物園のワイルドガ-デンに食草園エリアが設けられました。研修会でも何度か観察も致しましたイモムシにはびっくりもしますが楽しくもなります。サブタイトルを~京都府立植物園で見た生きもののつながり~とし、岡さんのイモムシ愛を感じるお話をお聞きしました。
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 まずは「イモムシって何の幼虫?」から。チョウ目のチョウやガの幼虫のことで日本にはチョウ約300種、ガ5500種がいるとのこと。イモムシの名の由来は漢字で「芋虫」イモの葉を食べるセスジスズメからついたと教えていただいた。また前部に3対6本の足、腹部に4対8本の足、後部に1対2本の足がある、なるほど!尚シャクトリムシは腹部の足が退化してないため前と後ろの足で特殊な歩き方をする、なるほど、なるほど!!
 そして「イモムシは何を食べる?」単食性と狭食性と広食性があるが単食性のイモムシは植物にはそれぞれに毒があり自分に見合ったものしか食べない、他の植物は餓死しても食べないらしい。
 チョウとガの一生と暮らし方は完全変態で、卵→幼虫→蛹→成虫と変化。幼虫と成虫で姿がガラリと変化する。
 次は京都府立植物園・食草園の植物とチョウの話。カラスザンショウはパイオニア植物で大きくなる、実は鳥にも人気。食草園には常緑のものが多い、トキワザンショウなど。コデマリにホシミスジ、ホトトギスにルリタテハ、ボタンボウフウにキアゲハなどの組み合わせ。
 そして個々のチョウとガの卵から成虫までの紹介。卵など微細なものも含め写真が鮮明でよくわかりました。チョウの幼虫は1齢から5、6齢で終齢に、ルリタテハの幼虫はJの字に似る。ジャコウアゲハの蛹は「お菊虫」と呼ばれ怪談、皿屋敷のお菊に由来するとのこと。ツマグロヒョウモンは南方系のチョウ、温暖化で北上。タテハチョウの仲間は6本足のうち前部の2本が退化して4本足に見える。
 そして「イモムシの天敵は?」・・鳥、カマキリ、クモ、ハチ、アリ、カエル、菌類そして寄生バチや寄生バエなど多種。
 「植物園で見られる植物、昆虫、鳥の関わり」さまざまで多種、季節により様々な共生関係が観察できる。
 「生きもののつながりを考える」例としてエノキには様々な野鳥や昆虫(ゴマダラチョウやタマムシ)が集まり生きもの生活空間、生きもの観察を楽しませてくれるなど紹介された。
 擬態する幼虫。枝と冬芽に化けたクワエダシャク、ヘビにそっくりのビロ-ドスズメ、クズの蕾に紛れるウラギンシジミなどを紹介いただいた、びっくり!!
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 お話は永久保存版の配布資料にそった説明でしたので非常にわかり易かったと思いました。岡さん素晴らしい講義有難うございました。単なる知識だけでなく実際に幼虫から飼育された実経験に基づく内容をお聞かせいただき大変有意義で興味深い楽しいお話でした。またイモムシ図鑑や鳥の羽根標本など多数お持ちいただき興味深く拝見させていただきました。 (文/澤田章夫)

公開講座 8月13日(火)「博物館と標本について:何のために?」の報告

 京都市の予想最高気温が38℃という猛暑の8月13日(火)午後2時から「ひと・まち交流館」で公開講座が行われました。講師は高槻市立自然博物館総括学芸員の高田みちよ先生。演題は「博物館と標本について:何のために?」。参加者は一般参加6名を含めて計37名でした。
 冒頭、高槻市立自然博物館(あくあぴあ芥川)の紹介のあと、高槻市鵜殿での特定外来生物ナガエツルノゲイトウの駆除作業を報告されました。駆除には当クラブの有志も参加しています。繁殖力が旺盛で、繁茂すると排水機場のスクリーンに引っかかって目詰まりを起こすなどの被害が出て、兵庫県では1トン300万円で処分との事です。取り残した破片が再び成長して来るのがやっかいですが、駆除後、シートで覆っておくのが有効とのことでした。来年度中の駆除を目指しているとのことです。
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 いよいよ本題です。まず博物館の発祥は古代ギリシャで、神への器物の収集が目的でした。中世ヨーロッパでは様々な珍品を保管する「驚異の部屋」が作られました。世界初の公共博物館は1683年に創設されたオックスフォード大学のアシュモリアン博物館、世界初の国立博物館は大英博物館で、私的収蔵品を一括管理し市民に公開するために創設されました。国際博物館会議(ICOM)は1946年に創設された非政府機関です。141か国から約3万7千人の博物館専門家が参加し、3年ごとに世界大会が開催されます。2019年には京都で開催され、2022年のプラハ大会では博物館の役割に関する新定義案が採択されました。内容は省略します。
 博物館の種類には東京国立博物館のような総合的なもののほか、科学、歴史、美術、動物園、植物園、水族館、天文台などがあります。博物館の仕事は①資料の収集と保管、②調査や研究、③教育と普及(展示)です。自然史博物館は「科学」に属します。
英語の「History」の意味は「歴史」の他に「自然を記録して残すこと」で、「自然誌」が本来の意味であったそうです。具体的には①自然史標本の収集・保管、②生き物の分類、③知り得た知識の公表(教育・普及)、④生物多様性への寄与です。自然史標本の特徴は、人が作ったものではないこと、そして「今」「ある、いる」ものを残すことです。スウェーデンのリンネは生き物をグループに分け、名前に属名と種名をつける二名法を確立しました。また、リンネはこれにより、「神の意思」を知ろうと考えたそうです。現在は、国際命名法規約のもとに世界共通で整理ができ、データベース化されて非常に便利になったとのこと。
 標本の種類には乾燥標本(剥製、押し葉、石ころ、骨格、昆虫、剥製など)や液浸標本などがあります。保存方法は食品と同じで、腐らせない、カビを生えさせない、虫に食われないことです。植物標本は、新聞紙にはさみ、布団乾燥機などで乾燥させるというやり方を現在も続けているとのことです。
 以下は標本の利用例です。標本に名前を付けるには基準となる「タイプ(模式)標本」が必要です。タイプ標本がないのは個性がバラバラの人間だけ。ヤマトグサは日本人(牧野富太郎)が初めて命名したタイプ標本です。標本からはその生き物が生きていた時と場所が分かり、自然環境が失われる前の標本があれば再生は可能です。
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 また、過去の標本があれば分類の見直し(カワムツの細分化の例)が可能で、外来種と在来種の増減の状況(オンブバッタの例)や生き物体内のマイクロプラスチックや農薬の分析をすれば環境の変化が分かります。私が興味を持ったのは、多くの渡り鳥の標本を解剖すると、渡りの途中で器官(胃腸、筋肉)のサイズを変えるという事例です。
これは、各地での標本の比較から分かった事です。また、あくあぴあ芥川では魚類標本から芥川に生息する魚類相がまとまったとのことです。
 標本で重要なのは、いつ、だれが、どこで採集したのかといった採集情報です。これがないと単なるモノです。自然史標本は①過去、現在、未来を繋ぐタイムカプセル、②その生き物の情報が後になっても得られる、③その生き物のいた時間、場所の環境が分かる、④生物多様性を維持するための研究に必要です。
 次は日本の博物館事情について。博物館の父は東京博物館や上野動物園の設立に尽力した田中芳男氏。育ての親は初代東京博物館長で博物館事業の発展と普及に尽力した棚橋源太郎氏。全国には博物館が約5400館ありますが、うち4000館は学芸員が1~3人と小規模。そこで小規模ミュージアムネットワークを2010年に発足させて小規模な博物館同士が連携する仕組みを作りました。高田先生は、
小規模博物館の連携で、博物館全体の底上げに貢献したことで2023年度文化庁長官賞を受賞されました。最後に先生より、博物館資料は人類の財産だが、日本の博物館は予算、人材、収蔵スペースのすべてにおいて不足している。展示を見に行くだけではなくもっと利用して欲しい。国民が「博物館は大事」と思うことが予算増につながる、と締めくくられました。
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 本日の講演で、博物館の歴史、標本の重要性とその利用法、さらに日本の博物館(特に小規模)が抱える問題点を知ることができました。高田先生ありがとうございました。
なお、質問でのヨーロッパの蝉については、英国には1種のみ、ドイツには居ないとの事。以下ご参考までに、世界の蝉は約1600種、日本には約30種、台湾には約50種以上。ヨーロッパでも暖かい、ギリシャからスペインにかけての地中海沿岸には数種類、アメリカには周期ゼミという土の中で過ごす期間が13年と17年の2種類が居て、この時期には大発生するそうです。また報告書作成に当たり木谷博史さんのレポ-トを参考にさせていただきました。(文/讃良)


公開講座 2月5日(月)「紫式部の見た植物・源氏物語から探る」の報告

 久しぶり開催の2月公開講座はシニア自然大学「自然に親しむ講座」他で大変お世話になっております、京都府立植物園名誉園長の松谷茂先生に講演をお願いいたしました。講演のテ-マは「紫式部の見た植物・源氏物語からさぐる」とし、今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」のヒロイン紫式部の見た植物を興味深くお話しいただきました。本日の参加者は小雨の天候にもかかわらず会員47名と一般参加者7名の計54名多数の参加となりました。

 講演の冒頭は先生の自己紹介から、今年創立100年を迎える「京都府立植物園」で当時栽培担当課長として勤務を始められた時の話。一時期、入園者が半減し植物園廃止の危機もあったが植物の見せ方の工夫、本物の植物で勝負して入場者を増やされたとの事です。

 源氏物語には約110種(草本類60種類、木竹類50種類)の植物が登場する。それも今から1000年以上も前に一人の女流作家が、文学作品にこれほど多くの植物を登場させたのは驚くばかりで紫式部の感性の豊かさや鋭い観察眼に圧倒されるとお話された。 

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 パワーポイントの表紙は中央下がヤマザクラ、左周りでフタバアオイ、タチバナ、ベニバナ、ムラサキ、オニグルミであり、それぞれ源氏物語の要所に登場する植物である。尚登場回数の多い植物はマツ、モミジが約60回、サクラが約50回で他にはウメ、フジ、ヤマブキ、ナデシコ、キク、ハス、オミナエシなど。

 そして第1帖から順次説明を受ける。
 ・第1帖は桐壷で植物は(キリ)
    紫のゆかりのスタ-トで紫はフジと共に高貴な色。葉身の基 部はハ-ト
    形、葉柄はマカロニ状、葉身の付け根は詰まっている。
 ・第2帖は箒木で植物は(ホウキギ)
    信濃国の伏屋にあった木。梢はホウキのよう。遠くから眺めると見え近づく
    と見えなくなる。ヒノキの説もあるが先生は実はエノキ?
 ・第3帖は空蝉で植物が登場しないことはない(アイ)が登場・着物の色合い。
 ・第4帖は夕顔で植物は(ユウガオ)
    「心あてに それかとぞ見る白露の ひかりそへたる 夕顔の花」と読まれて
     いる。夏の夕方に咲き、翌朝にはしぼむ。
 ・第5帖は若紫で植物は(ムラサキ
    白い花、若紫は源氏が思いを寄せる藤壺の姪。ムラサキの根は高貴な色
    「紫」の染料。
 ・第6帖は末摘花で植物は(ベニバナ
    花茎の先端(末)にある花を摘むから末摘花。花の色は黄色から紅色。
 ・第7帖は紅葉賀で植物は(モミジ
    頭の中将を相手に「舞楽」の青海波を舞う。源氏挿頭の紅葉が散り、頭中将
    が菊に差し換えた。              

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 ・第8帖は花宴で植物は(ヤマザクラ
    2月20日過ぎ、紫宸殿で桜の花の宴。3月20日過ぎ藤の花の宴で朧月夜
    と再会。山桜は関西人好み、染井吉野ばかりが桜ではない!!
 ・第33帖は藤裏葉で植物は(フジ
    藤は多くの場面に登場。松に巻き付く藤は上から下に向かって紫色の花が
    咲く、下にいる人が上にある紫の花を見上げて愛でる尊い。
 ・第9帖は葵で植物は(フタバアオイ
    下向きに楚々と咲く花は全く目立たないが可愛い。祭りと言えば「賀茂祭」、
    「逢う日」に掛ける「葵」。
 ・第10帖は賢木で植物は(サカキ)
    常緑樹、美しい樹姿。栄える木→さかき→榊。境の木→神域と人間域源氏
    が差し入れたサカキの葉には香りはあるか?
 ・第11帖は花散里で植物は(カツラ)
    ふつう秋の黄葉時の甘い香り。がしかし登場の季節は春~初夏。
 ・第12帖は須磨で植物は(シノブ)
    須磨のわびしい住まいで便りを交わし、絵を描いて寂しい日々を送る。紫
    式部はシノブを見たのかノキシノブを見たのか?
 ・第18帖は松風で植物は(マツ)
    物語では多くの帖、場面で登場。源氏が見た松は須磨、明石では黒松か。
    大揠川の山里では赤松か?

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写真はクリックで大きく表示されます)
 先生の説明は絶好調で内容も詳細で、パワーポイントも見やすく、講演が進みましたが気がつけば予定の時間を超えていました。今日は紫式部の描いた源氏物語に登場する人物や場面に合わせた植物の特徴を分かり易く教えていただきました。松谷先生有難うございました。機会がありましたら是非とも続きをお聞きしたいと思います。 (文/澤田章夫)