京とおうみ自然文化クラブ

「京(みやこ)とおうみ自然文化クラブ」は、認定NPO法人シニア自然大学校の京都府・滋賀県の地方組織です。旧ブログは左下リンク集より閲覧できます。

 例会報告

例会 11月30日(木)「双ヶ岡~御室仁和寺・御室八十八か所巡り」の報告

 晩秋のこの時期に、御室仁和寺界隈を訪れました。実は昨年計画しましたが雨で中止。今年も天候を気にしていましたが今日は晴れ、寒さもそれほどでもない活動日和となりました。本日の案内はご近所にお住まいで地理にも植物にも詳しい、高橋弥生さんにお願いいたしました。

 JR花園駅に10時に集合、31名の参加。スケジュールの説明を受け出発、仁和寺の南に位置する小丘陵は「雙ケ岡(ならびがおか)」として国の名勝に指定されている。今日は南から三ノ丘、二ノ丘、一ノ丘と散策していく。丘上には古墳群があったらしい。道々で樹木の説明を受ける。シロバイ、ソヨゴ、リョウブなど。リョウブ(令法)は飢饉のおり新芽、新葉を食するよう法令で定めたことから命名されたとのこと。そしてカナメモチ、ヒサカキ、カクレミノ。カクレミノはご存知グー、チョキ、パーの木。アオモジの樹皮は緑で葉からはレモンの匂いがする。
 二ノ丘は2018年台風による倒木を集積したモニュメントがあり印象に残る。コシダウラジロも道端に。ウラジロはお正月の縁起物で代々(7年~10年)にわたり伸び続けるから縁起がいいそうだ。アカマツ、コナラ、ネジキなどを見ながら一ノ丘(116m)に着く。仁和寺二王門五重塔が確認できた。ここからは急な下り道、嵐電の電車の音も聞こえてくる。ソヨゴとリョウブが道々にそしてヒヨドリの鳴き声か?小丘陵を降りて双ヶ丘制覇し仁和寺に向かう。

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 御室仁和寺駅を渡ればすぐに仁和寺の二王門。境内に入ると目の前に広がるモミジの紅葉、何と綺麗なことか感激,感嘆する!!仁和寺の説明を受ける。ここの「御室桜」は京都で一番遅咲きの桜として親しまれている。樹高は低く2mから3mほどで「わたしゃお多福、御室の桜,鼻が低ても、人が好く」と詠われた。そして堂塔伽藍は応仁の乱(1467~1477)で焼失したがその後再興、金堂(国宝)は御所の紫宸殿を移築。1994年に世界文化遺産に登録された。金堂前のモミジの紅葉は特に素晴らしいの一言。

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 八十八か所巡りゴール地点の広場で昼食をとり3km、約2時間のコ-スに出発する。「御室仁和寺八十八か所」は1827年に当時、四国八十八か所への巡拝が困難であったため、その地の砂を持ち帰り仁和寺の裏山である成就山山道に埋め、その上に諸堂を建て霊場を整備したのが始まり。8番からスタ-ト、阿波の国の熊谷寺で千手観音が祀られている。少しきつい上り23番で休憩。ここからは先ほど歩いた双ヶ岡が一望できる。続いて28番はこのコ-ス最高のビュ-スポットで比叡山、京都タワ-が眼下に
 31番は土佐の国の竹林寺、数年前に寄進により再建された、その寄進額は何と1000万円である。37番には花天井絵41番は伊予の国の龍光寺で六角堂である。48番が成就山山頂(236m)ここからの眺望もよい。50番をすぎたところがまたまたビュ-スポットで仁和寺、妙心寺、双ヶ岡、京都タワ-を望む。66番からは讃岐の国で雲辺寺。80番には亀石があり、がん封じとのことで石をなでる。最後は88番大窪寺で御室八十八か所を結願。これで煩悩が消え、願いがかなうかは今後の行い次第か。

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 今日は高橋さんの丁寧な案内で大変良い活動となりました、紅葉も楽しめました有難うございました。   (文/澤田章夫)

例会 11月24日(金)「京都御苑界隈の歴史散策」の報告

 この季節からすると暖かい一日、何度も訪れた京都御苑を中心とした歴史散策、参加者は20名、案内役は何時もの歴史大好き山下さん。コースは、九条邸跡をスタートに御苑内の神社や歴史舞台となった邸宅跡と御苑周辺のお寺・古社を散策する。ちょうど昨年の今頃(12/6)にも同地を訪れているが、閑院宮邸跡の床モミジや足元が落ち葉で黄色くなったイチョウの前での記念写真と秋を満喫したことを思い出します。

 先ずは、丸太町通りに面した間之町口を入った所で朝の集会、丸太町通りは昔は春日小路と呼ばれていたが、西堀川界隈に丸太の材木屋が多かったことから江戸時代には今の丸太町通りとなったとの説明を受ける。
 看板前での概要説明では、京都御苑一帯は、平安時代には貴族などの邸宅が置かれ、江戸時代には、およそ200軒の公家邸が立ち並んでいました。また、幕末・維新の戦乱の舞台でもある。現在公園となっている部分は、明治時代まで宮家や公家の邸宅が立ち並ぶ町でしたが、その後、都が東京に移ったことにより邸宅は無くなりこの辺り一帯は、一時期荒廃し、この状態を嘆いた天皇や岩倉具視などにより御所保存・景観維持が建議され公家屋敷の空家撤去、跡地の整備が開始された。
 1947年に皇居外苑,新宿御苑,京都御苑の3つの公園が厚生省のもと国民公園として発足、1971年環境省が創設されて以降環境省が管轄を引継ぎ敷地内の自然保護の力を入れられるようになった。

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 今回は、歴史を中心に心が躍る。最初に五摂家の一つである茶室「捨翠亭」が残る九条邸跡へ、高倉橋からは、数寄屋造書院風の茶室や神社を一望出来、ハゼの紅葉が美しい素晴らしい眺めであった。厳島神社唐破風鳥居(上部の横柱が曲線状に反り曲がっている)は、蚕ノ社の三柱鳥居,北野八幡宮の連社石鳥居とともに京都三珍鳥居の一つとして有名である。次に訪れた閑院宮邸は、宝永7年(1710)に東山天皇の皇子、直仁(なおひと)親王を初代とし伏見宮,桂宮,有栖川宮家と並ぶ江戸時代の四親王衆のひとつである。
 昨年、クスノキの巨木の幹周りを実測した宗像神社を経由して、巨木・珍木巡りでは足を運ばなかった、胎範碑(幕末期政変で中心人物であった中川宮朝彦親王の碑)白雲神社(西園寺家の旧鎮守社, 立命館学園発祥之地), 西園寺邸跡(琵琶の宗家),枇杷殿跡へ。

 その後、禁門の変で有名な蛤御門にて幕末の傷跡を観る。京都御所の西面を通り五摂家の一つ近衛邸跡、明治天皇誕生の地中山邸跡、京都御所の鬼門(東北角)に鬼門除けとしておかれている木彫りの猿(猿ヶ辻)の説明を聞きながら先へ進む。御所建春門の前を通り、橋本家跡(皇女和宮の生家),学習院跡,土御門第跡の説明後は、清和院御門を出て京都御苑の東側へ梨木神社そして紫式部の邸跡として有名な蘆山寺は、938年元三大師良源が開基された天台圓浄宗大本山である。ここでは紅葉の美しさに目を奪われ皆で記念写真を!

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 廬山寺の北にある清浄華院は、浄土宗大本山の一つであり860年清和天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建した禁裏内道場に始まり法然上人が浄土宗寺院に改めたとされています。さらに北にある本禅寺は、法華宗の本山で光了山と号す。本禅寺の本堂は、火災防止のため檜表面は漆喰壁で白く塗られていた。
 御苑の北側には、京の都の鬼門を守ってきた猿神像が祀られている古社幸神社(さいのかみのやしろ)がある。本堂裏にて猿神像を観る事が出来た。最後に、相国寺の前を通り同志社大学の構内へ、ここから冷泉家を見学、平安末期から鎌倉初期に活躍した歌人の「和歌の家」である。

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 午後からは、少し寒さを感じる気温となったが、無事今出川駅までたどり着いた。本日の、案内役である山下さんには感謝です。有難う御座いました。
(文/T.Sawada) 

例会 10月18日(水)「応仁の乱ゆかりの地を訪ねる」の報告

 秋晴れの良い天気だった。10月18日の午前10時、京都地下鉄今出川駅に33名が集合。本日の案内役はお馴染みの松浦さん。
 応仁の乱は、14世紀の前半(1336年)足利尊氏が開いた室町幕府の中頃に起こった内乱である。応仁元年(1467年)に発生、文明9年(1477年)までの11年間にわたった。幕府管領家の畠山氏、斯波氏それぞれの家督争いから、東軍の細川勝元と西軍の山名宗全の勢力争いに発展し、八代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、全国に争いが拡大した。京都を焦土化しただけで、なんら勝敗を決することなく終結、戦国時代へ突入した時期である。

 その時代背景を少し頭にいれながら、最初に訪れたのが「室町第跡」。三代将軍足利義満の館があった所で、室町殿あるいは花の御所と呼ばれた。乱の当時は、義政・富子夫婦が住んでいたという。大聖寺門跡との表札をくぐると花の御所を記した大きな石碑が樹々に隠れて置かれていた。

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 次に薩摩藩邸跡碑や藤原定家の子孫・冷泉家住宅の外観を見て回り、義満創建の相国寺(しょうこく)寺に入った。京都五山第二位の臨済宗寺院であり、八代将軍義政の墓と共に定家、伊藤若冲がまつられ、承天閣美術館(有料)を併設している。東軍の拠点となった当寺の伽藍はことごとく灰になった。松浦さんから、相の本来の意味は、木の目利きで、そこから人の目利き、国の目利きとなった。また、相をしょうと読むのは、首相・宰相と同じく、相国とは国を治める、助けるという意味があると聞き大変勉強になった。もともと創立当初は、約144万坪の寺域がある、広大な寺であった。現在は南に同志社大学、北に京都産業大学付属の中学・高校がある。現在の寺域は4万坪となっている。
 応仁の乱発祥の地とされる上御霊(かみごりょう)神社がすぐ近くにあり、「こころしずめ」の社として有名。この西側の烏丸通を北へ上り、鞍馬口駅を左折すると幕末の薩摩藩士小松帯刀邸跡。薩長同盟の締結場所であり、近衛邸別邸(御花畑屋敷)とも呼ばれる。
 小川児童公園で昼食後、上京区百々(どど)町の宝鏡寺へ。光厳天皇の皇女・恵厳禅尼が開山。その後歴代の皇女が入られ、別名「百々御所」とも呼ばれた。その縁で、代々の天皇が人形を贈られたため、人形の寺としても有名。人形供養祭は年1回行われる(本年は中止)。

 寺を出てバス停堀川寺之内を南へ下ると山名宗全の屋敷跡。室町時代の守護大名で、応仁の乱では西軍の総大将。すぐ近くの京都市考古資料館の前に「西陣跡」の石碑がある。西陣・西陣織の名称も宗全率いる西軍が陣を敷いたことに由来する。
 法華宗真門流総本家の本隆寺は1488年日真により建立。現存する本堂は江戸前期明暦3年(1657年)の再建で、入母屋造り、本瓦葺きの七間堂である。1788年天明の大火では西陣一帯が焼け野原となったが、本隆寺の本堂・祖師堂・宝庫は類焼をまぬがれた。このことから「焼けずの寺」の別称を持つ。京都の日蓮諸宗本山寺院では最古。本隆寺を南へ下ると「首途(かどで)八幡宮」がある。源義経が奥州への旅立ち前に祈願したところである。

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 後鳥羽上皇の院御所として使われていたという「五辻(いつつじ)殿跡」も近い。石碑があり、五辻通×千本通の交差点には五辻の昆布・本店がある。京土産として有名らしい。十分ほど西へ歩くと大報恩時となる。国宝に指定されている千本釈迦堂である。鎌倉初期の安貞元年(1227年)、義空上人によって創建された。応仁の乱で唯一難を逃れた寺であり京都市街最古の木造建築である。ここで、境内のおかめの面について、松浦さんから、棟梁の永井高次と、妻、阿亀の天柱をめぐる話は印象深いものでした。
 最後に日本最古の花街・上七軒の街並みを通り抜け、帰途についた。(文/吉田)

例会 10月16日(月)「奈良阪コース・ならきたまち歴史散策」の報告

 さわやかな秋晴れのもとでの例会の参加者は、会員25名と一般参加6名の計31名でした。近鉄奈良駅からバスで「奈良阪」まで移動し、ここで3班に分かれて散策がスタート。講師は「ならなぎ」メンバーの上森さん、村上さん、服部さん。コースは奈良豆比古神社(ならづひこじんじゃ)を皮切りに、般若寺、五劫院を経てゴールの転害門(てがいもん)まで南下するルート。

 奈良阪は京都と奈良の境界で、かつては交通の要衝でした。奈良豆比古神社の本殿には産土神の奈良豆比古神、光仁天皇の父の志貴皇子、志貴皇子の息子の春日王を祀る3つの社が並んでおり、これらは20年ごとに化粧直しするとのこと。春日王は芸能を好み、10月8日に奉納される
「翁舞(おきなまい)」は能楽の源流にあるといわれ、国の重要無形民俗文化財に指定されました。本殿裏の敷地では樹齢1200年の巨大なクスノキを観察しました。
 次は鹿せんべいの武田商店。製造業者は奈良市内の4~5軒のみで、武田商店が最も古い。工場内は家内工業の雰囲気。店主の説明では原材料は小麦粉と米ぬか、これに水を混ぜてから焼く。せんべいを束ねるテープや印字するインクは鹿が食べても安全な材料を使っているとか。そのほか、鹿にまつわる興味深い話をしていただきました。焼きたての熱いせんべいを試食しましたが香ばしかったです。

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 次の植村牧場は明治16年創業の奈良で一番古い牧場。敷地内には牛舎のほかレストランや売店があります。ここで休憩タイム。ソフトクリームを食べる人や牛乳を飲む人などさまざま。牛乳はコクとほのかな甘みがあってとても美味でした。
 道路を隔てた対面には般若寺の楼門がそびえています。楼門とは二階建ての門のなかで、上層にだけ屋根を持ち、その周囲に欄干を巡らせた門のこと。鎌倉時代に建造され、その後の災害や戦乱から免れて現在まで残った日本最古の楼門で国宝です。このほか、鎌倉時代に建てられた十三重石塔は般若寺のシンボル的な存在とのこと。般若寺は花の寺として有名で、今はコスモスの季節。残念ながら時間の都合で境内へは入場しませんでしたので、機会を見つけてぜひ訪れてみたいです。

 次に立ち寄った奈良少年刑務所は明治時代に建てられ、2017年3月末に閉鎖されました。設計者はジャズピアニスト山下洋輔さんの祖父で監獄建築家の山下啓次郎さん。中央看守所から放射状に5つの収容棟が伸びているのが特徴ですが、ここは2026年にホテル(星のや)として開業予定です。
 般若坂にある夕日地蔵のすぐ近くには、鎌倉時代に西大寺の僧・忍性によってハンセン病患者の救済を目的として建立された北山十八間戸があります。18戸に区切られた細長い棟割長屋で、江戸時代まで使われていました。
 般若坂を下って佐保川を渡り、しばらく歩くと旧細田家住宅。奈良市内で最も古い農家のひとつ。屋根の中央部は茅葺で両端が瓦葺から成る大和棟が特徴。内部は土間と居室で構成されています。

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 すぐ近くの五劫院は東大寺の末寺でご本尊は五劫思惟阿弥陀仏。ちなみに「劫」とは非常に長い時間を表し、アフロヘア―のような羅髪は長時間考え続けたお姿とのこと。この境内で昼食タイム。
 昼食後は、東大寺別当に就任した空海が開いた空海寺を訪れ、本堂前の矢田寺から移転した矢田地蔵菩薩石像を観た後、正倉院へ。
 正倉とは公的な収蔵施設の総称で、複数の正倉が集まった一画を正倉院と称していますが、現在は東大寺正倉院内の正倉一棟だけが残ったので、これを正倉院と称しています。内部には聖武天皇と光明皇后ゆかりの品や病気治療用の薬物、そして毒草の冶葛(やかつ)、香木などが収められています。
 正倉院をあとにしてゴールの転害門へ。途中、お笑いタレントの明石家さんまさん出身の小学校の前を通り過ぎると転害門はもうすぐ。転害門は東大寺境内の西側にあった3つの門のうち現存する唯一の門。奈良時代に建てられた堂々たる門で国宝に指定されています。ここで全員集合し、午後2時前に散会となりました。

 今日は私にとって初めてのコースでしたので、奈良に対する知識が深まりました。案内していただいた講師の皆さんに感謝いたします。 (文/讃良)  

例会 9月26日(火)「大山崎~長岡京散策&サントリー京都工場見学」の報告

 集合はJR山崎駅に10時。天候は晴れ、暑さはまだまだ厳しいものの何とか辛抱の出来る程度でした?  
 今回は相手先(サントリ-)の決まりで定員制、当初は25名定員でしたが申し込み者が多く、今回担当の澤田勉さんの再三の交渉で増員していただきました。有難うございました。そして参加者は37名と盛況でした。
 駅前には妙喜庵(みょうきあん)があり、豊臣秀吉の命で千利休が作った日本最古の茶室「待庵(たいあん)」があります。ここは1か月前からの予約です、興味が有りましたら訪れてみてください。
 駅からすぐの場所「離宮八幡宮」に移動し、ここで本日のスケジュールなどの説明をうける、そして境内を見て回る。この地大山崎は平安京の裏鬼門に当たり淀川の対岸にある石清水八幡宮と共に平安京の守り神であった。社伝によると当宮の神官が「長木」という油搾り道具を作り、この地に広がり「荏胡麻(えごま)油」発祥地、油の製造と販売の中心「油座」として栄えていました。

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 駅まで戻りアサヒビ-ル大山崎山荘美術館に向かう。徒歩で約10分の距離だが、急な昇りと、道端の植物の観察、ヒヨドリバナ、ヤブラン、ニシキギなどを見ながらの移動でなかなか到着せず。
 アサヒビ-ル大山崎山荘美術館は実業家の加賀正太郎によって建築された「大山崎山荘」を本館とし、安藤忠雄設計による新館を合わせて公開している。本日は庭園の散策でしたが、モネの睡蓮は超有名ですのでまた機会があればご覧ください。庭園のシンボルツリ-はシラカシで綺麗な枝ぶりでした。他にもイヌエンジュ、カリン、ゴヨウマツ、ハクモクレンフサフジウツギ、サルスベリ、イヌマキ、ブラシノキ、チャノキ、クロガネモチ、フジバカマなど、池にはスイレンも咲いていました。
 少し休憩をとり「竹林の小径」へ今日は歩きやすい観音寺(山崎聖天)に向けてのハイキング道を歩く。竹林で癒されましたか、さらさらと鳴る竹の葉の音を聞いていただけたでしょうか?そしてビューポイントからは三川合流(桂川、木津川、宇治川)、そして男山(石清水八幡宮は裏側)が望め、また新幹線も。
 昼食場所の「史跡大山崎瓦窯跡」は2021年に整備し公開された。昼食後興味のある方は見学されるし他の方はゆっくりと休息。
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 午後の出発はひたすら「サントリー京都ビ-ル工場」を目指して移動、狭い住宅地を縦1列になり歩く、住宅の園芸を見ながら進む、擁壁の隙間から育つカツラの木を発見凄い生命力である。
 「山崎合戦古戦場」と記された石碑が高速道路下の広場にあった。明智光秀と秀吉が激戦を交わした地である。ここで少し休憩し、目の前のサントリー京都ビ-ル工場に向かうが、残念ながら直進できず、迂回して行くあと30分ぐらいか我慢。住宅地を抜け「明智光秀陣地跡」に本陣を置いたとされているところである?
 サントリー京都ビ-ル工場に到着、歓迎を受ける。まずは集合写真。そしてスライドでの説明と工場内の案内を約40分。なかなかの近代的な生産プラントであると思う。そしてお待ちかねの試飲20分「ザ・プレミアムモルツ」と「香るエ-ル」は旨い。出来立てで泡も最高でありました。   (文/澤田章夫)