京とおうみ自然文化クラブ

「京(みやこ)とおうみ自然文化クラブ」は、認定NPO法人シニア自然大学校の京都府・滋賀県の地方組織です。旧ブログは左下リンク集より閲覧できます。

 例会報告

例会 1月30日(木)「秦氏ゆかりの地を巡る」の報告

 京都の太秦を起点に嵐山までの歴史散策です。時折雪が舞う薄曇りの寒い天気にもかかわらず、会員49名、一般参加2名の計51名の方が参加されました。案内は歴史に詳しい山下さん。地下鉄太秦天神川駅を地上に上がった広場に集合し、ここで山下さんから、太秦の名の由来について説明がありました。
 機織の技術集団であった渡来人の秦氏はヤマト王権へ絹や布を献上し、それらをうず高く積み上げていたことから、「兎豆満佐(うずまさ)」という姓を賜わった。そこから、拠点を表す「太」という漢字を当てはめ、「秦氏の拠点」を表す「太秦」になったとの説があるようです。このあと10時10分頃に出発。
① 木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社
 難しくて読めません。通称は木嶋(このしま)神社。推古天皇12年(604年)に広隆寺創建に伴い勧請されたともいわれています。本殿の右にある社殿は養蚕(こかい)神社、別名は蚕の社(かいこのやしろ)。この名の由来は、秦氏が養蚕と織物の神を祀ったのが始まりと伝えられています。「蚕の社」の由来がやっと分かりました。ここで山下さんから、社殿の屋根に直角に設置されている鰹木(かつおぎ)の本数から、この神 社が男性の神か女性の神かを見分ける方法を学びました。鰹木の本数が奇数ならば男性の神、偶数ならば女性の神です。
 本殿の西に建てられているのは京都三珍鳥居の一つの三柱鳥居(みはしらとりい)。三つの鳥居を正三角形に組み合わせた形で、中央の組石は神坐で、以前は三方向から拝めるようになっていたようです。鳥居の前にある池が元糺の池で、現在は枯渇しています。
② 大酒(おおさけ)神社
 祭神は秦の始皇帝、弓月君(ゆづきのきみ)、秦酒公(はたのさけきみ)。大酒神社は元来、広隆寺の桂宮院の境内に鎮守の社として祀られていましたが、明治元年の神仏分離令により現在の位置へ移転しました。八角柱の鳥居がユニークです。
③ 広隆寺  
 広隆寺では団体での見学はできないため、集合時間を決めての個別見学となりました。暗い講堂の奥に金網越しに阿弥陀如来坐像を見ることができました。広隆寺の現在のご本尊は聖徳太子ですが、603年に秦河勝が聖徳太子から賜った仏像をご本尊として建立した京都最古の寺です。その本尊が国宝指定第1号の弥勒菩薩像で、霊宝殿に収められています。霊宝殿には国宝20点、重文48点が収められており壮観です。有料ですが拝観をお勧めします。なお、国宝第1号の謂われは、指定当時、地図上で一番北にあって、南に行く毎に2号、3号となったためだそうです。
④ いさら井                                                      
 広隆寺の境内を出てしばらく歩くと、民家のそばに使われていない古びた井戸があります。元々は広隆寺の境内にありましたが、敷地の縮小により現在の場所に残りました。この井戸をいさら井と呼んでいますが、「いさら」とは古語で「少ない」という意味なので「いさら井」とは「水の量が少ない井戸」ということになります。一方で、いさら井はイスラエルがなまったものと捉え、日本人とユダヤ人とは祖先が同じではないかという日ユ同祖論という説もあるようです。   
 少し歩き、大映通り商店街を少し入った所にある三吉(さんきち)稲荷神社(通称、映画神社)に立ち寄ったあと各自での昼食タイムとなりました。
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⑤ 蛇塚古墳
 蛇塚の名称は、かつて石室内に蛇が多く棲息していたことに由来するそうです。京都府下最大で、全国的にも有数の規模を誇る横穴式石室をもつ前方後円墳ですが、住宅地の中にポツンと存在します。秦氏一族の族長クラスの墓といわれ、古墳時代後期の6世紀末から7世紀初頭に築造されたと考えられています、現在は、墳丘封土は失われ、露出した石室のみが残ります。石室の大きさは全国で4番目とのこと。
⑥ 車折(くるまざき)神社
 この神社の名前は、後嵯峨天皇が嵐山に遊行した際、社前で牛車の轅(ながえ)が折れ、動かなくなったことから、門前右側の石を「車折石」(くるまざきいし)と呼んで、「正一位車折大明神」の神号を贈られたことに由来します。そのため当社では「石」に対する信仰が厚く、神主がお祓いをした石が入ったお守り「祈念神石」は願い事を叶えるパワーストーン」として知られています。境内には、芸能の神様「アメノウズメノミコト」を祀った芸能神社があります。毎年多くの芸能人やアーティストがこの神社へ参拝し、芸名や劇団などの団体名を記した朱塗りの玉垣が多数奉納されており、華やかで目を奪われました。
⑦ 葛野大堰(かどのおおい)                                                        
 車折神社から20分ほど歩くと大堰川の河畔に出ました。遠くに嵐山の渡月橋が見えますが、河畔の冷たい風に当たり寒さは倍増です。観光客で混み合う渡月橋を渡り、右折して中之島の先端に行くと「一ノ井堰」と彫られた石碑があります。桂川は渡月橋付近で大堰(おおい)川と呼ばれていますが、これは5世紀後半に秦氏が葛野(かどの)地方に移り住み、渡月橋の付近で桂川の中に大きな堰を築いたためです。この堰が葛野大堰です。この堰で水をせき止めて水量を調節し、洪水を防ぐと同時に水路を設け農業用水を確保することができました。これにより嵯峨野や桂川右岸で農耕ができるようになりました。現在、秦氏が造った葛野大堰を原型に「一の井堰」が渡月橋上流に造られています。                    
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(写真はクリックで大きく表示されます)
 ここで終礼が行われ14時40分頃に解散となりました。本日は太秦の由来や秦氏の功績などを知る良い機会でした。案内していただいた山下さん、ありがとうございました。   (文/讃良)

例会 12月17日(火)「石清水八幡宮界隈の散策と植物観察」の報告

 京阪電車石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)駅に10時集合。会員45名と一般2名の計47人で、11月の例会と同じく大勢の参加がありました。今回の案内役は、歴史散策は中林さん、澤田章夫さん、植物観察は髙橋が担当でした。急に冷え込みが強くなり2・3日前までは最高気温が10℃に満たない冬型の天気でしたので、そんなに多くの人は集まらないだろうと予想していました。当日、駅前の観光案内所でパンフレットを25部もらい皆さんに配っていたら、たちまち足らなくなって追加、そしてまた追加となり、案内所の方は嬉しい悲鳴をあげておられました。

 先ずは、八幡宮一の鳥居の前で朝礼。そのあと中林さんから本日のルートや、石清水八幡宮の歴史について説明がありました。裏参道から登り、展望台へ、その後本殿を参拝し、表参道へ降りるルートです。その後は、相槌神社、単伝庵、飛行神社へと参拝します。
 ①   一の鳥居 鳥居の上の扁額「八幡宮」は、「八」の字が双鳩になっています。
 ②   頓宮(とんぐう)・極楽寺跡 回廊に囲まれた一画を「頓宮」といい、毎年9月15日の勅祭「石清水祭」は、京都葵祭・奈良春日祭とともに三大勅祭の一つです。真夜中に松明や提灯の灯りだけで行われる神聖な祭りです。祭りの起源は、僧侶行教が九州の宇佐神宮で神託を受け、この男山で八幡大神を祀ったことが始まりです。863年宇佐神宮に倣って始められた「放生会(ほうじょうえ)」に遡ります。極楽寺は、石清水八幡宮初代別当が883年に建立しましたが、鳥羽伏見の戦いで、焼失しました。
 ③   高良(こうら)神社 860年に建立。鳥羽伏見の戦いで焼失しまたが、明治12年に再建。吉田兼好「徒然草」の話が紹介されました。「ある日仁和寺の和尚が石清水八幡を訪れ、極楽寺・高良寺を詣でた。参詣を済ませ、さて帰ろうとしたときに、人々は山頂を目指して階段を登っていく。が、今回の目的は石清水八幡宮参詣なので帰ってしまった。後で、石清水八幡宮が山頂にあることを知って、どんなことでも、案内人は必要だと痛感した」という話でした。

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【ここで、植物観察1】
 オガタマノキタブの巨木の紹介。イチョウの葉の雑学を披露。銀杏は雄木と雌木がありますが、葉っぱの違いで見分けられるでしょうか。切れ込みのないスカート銀杏、切れ込みのあるズボン銀杏、さてどっちが雄でどっちが雌?正解は葉の形は関係ない。切れ込みのある葉は、強せん定されたため、早く大きくなろうと大きな葉を付けます。そして風の抵抗を少なくするため切れ込みが入るのです。幼木も同じ原理で、切れ込みの葉があるものがあります。この話は、ちょっと盛り上がりました。道中では、ケヤキ・エノキ・ムクノキの葉の違いを観察し、それぞれで同定されていました。タラヨウイヌビワカゴノキなどもありました。

 ④   展望台 澤田さんより紹介。この日は遠くまでよく見え、京都盆地が一望に見渡せ正に絶景でした。木津川・宇治川・桂川の3川合流地点、西から愛宕山、京都タワー、比叡山、宇治平等院等が見えました。遠くは、雪を被った蓬莱山まで見ることができラッキーでした。まだもみじの紅葉が残り、足元にはもみじの落ち葉で大きなハート模様が形取られ、私たちの目を楽しませてくれました。
 ⑤   石清水八幡宮 859年空海の弟子であった奈良の大安寺の僧が宇佐神社に参詣したおりに神託を受け、翌年860年に清和天皇の命により創建しました。以来京都の北西にある比叡山延暦寺と対して京都の南西の裏鬼門を守護し、皇室・朝廷より篤い信頼を受けました。また、源氏も氏神として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬されました。創建以来、明治初年の神仏分離までは、多くの宿坊が参道に軒を連ねていました。社殿は3回炎上し、現在の社殿は1634年に徳川家光の造営によるもので、「八幡造り」と呼ばれています。(国宝)

 ここで、「はちまんさんの不思議」の紹介。その1斜めを向く社殿。これは参拝の際に神様の真正面を通らないためです。その2見つめ合う一対の鳩。楼門の蟇股(かえるまた)に、向いあう鳩の錺(かざり)金具があり、鳩が少し口を開けているのと、開けていないのがいます。これは、八幡さんのお使いである鳩が、「阿吽の呼吸」で神様を守っています。その3切り取られた石垣。東北の角が豪快に切り取られています。これは、鬼門を封じるために切り取られるように造られました。その4参道に飛び出た石。一ツ石と呼ばれ、昔石畳がなかったころに行われていた走馬のスタート地点。別名「勝負石」とも言われています。その5エジソン記念碑。発明王トーマス・エジソンが白熱電球のフィラメントに適する素材に、この地の竹を使い長時間点灯させることに成功。この功績をたたえて、昭和9年に記念碑が建立されました。不思議は全部で8つあるそうです。
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【植物観察2】
 境内には、大木の紅白のサザンカが数本あり満開でした。オガタマノキの根元には、1円玉のお賽銭がたくさん置いてありました。この木が、1円玉の裏側のデザインになっていると言われてそうです。しかし、実際は若木をイメージしたもので、オガタマノキとは断言できないようです。樹齢700年のクスノキの巨木がありました。これは楠木正成公が戦勝軍利を祈り植えられたとされています。大木のナギノキもあり、裸子植物であること、海の凪を願うことなどを話しました。
 エジソン記念碑前の広場で、一旦昼食休憩となり、この時間は、少し寒く感じました。

 帰りは表参道から、めいめいに植物観察や紅葉を眺めながら降りていきました。なんせ、47人と大人数ですから、随分と長い列となりました。松花堂弁当もこの地が発祥です。
 ⑥   相槌(あいづち)神社 八幡さんを降りたところにある末社で、刀剣に関係の深い神社です。傍らには、「山ノ井戸」があります。説明ポイントでは、1度に人が集まらずに、3回に分けて説明する場面もありました。
 ⑦   単伝(たんでん)庵 相槌神社から歩くこと約20分。別名らくがき寺。大黒様に願い事が見えやすいように、壁に落書きが見えるように書き入れる「らくがき祈祷」が出来ます。土日しか拝観が出来ないので、説明を聞き外から眺めました。
 ⑧   飛行神社 日本で初めての動力飛行機を発明した二宮忠翁創建の神社。空の安全、航空業界の発展を願います。この神社は、ギリシャ風の建物やステンドグラスの飾りがあり、一風変わった神社です。

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 14時、ここで解散となりました。めいめいにお参りをして、自由解散です。時間にも余裕があり、多くの人は石清水八幡の門前まで戻り、八幡名物「走井餅」を食べに行きました。お店は我々でいっぱいになり、お土産を買う人や、甘味処で休憩する人で大繁盛でした!!初冬の景色の中で、ゆっくりとした歴史散策を楽しみました。(文/やよい) 

例会 11月29日(金)「錦秋の洛南・泉涌寺界隈の寺社を訪ねる」の報告

 京阪東福寺駅前に会員44名と一般参加3名の計47名が10時に集合しました。駅改札口前は観光客で混雑していたので、萬寿寺の門前まで移動して、担当幹事の赤對さんのあいさつでスタートしました。案内役は松浦さんで、事前に説明資料をいただいています。天候は晴れ一時雨の予報でしたが、今は晴れています。タイトルにある「錦秋」は、木々が紅葉して、錦の織物のように美しい秋の意味です。「そうだ京都行こう」の紅葉情報では泉涌寺、東福寺は「見頃」とのこと。実際はどうでしようか。なお、「洛南」は京都市の南部をさす通称ですが今回はその一番北のエリアを巡ります。

 ① 萬寿寺 かつては、臨済宗京都五山(南禅寺を別格として、天龍寺 相国寺 建仁寺 東福寺 万寿寺 )のひとつに数えられた大きな寺でしたが、今は東福寺塔頭となっている小規模な寺です。非公開なので次に向かいます。ここから先は人通りが少ない裏道を進みます。
 ② 即成院(そくじょういん)泉涌寺塔頭。まずは、入口の門の上に鳳凰像に注目します。鳳凰は藤原頼道が建立した平等院のものが有名ですが、頼道の三男の橘俊綱が即成院を建立した際に平等院に向き合うように鳳凰を置いたとのことです。境内には弓の名手であった那須の与一の墓があります。源平合戦の屋島の戦いで与一が活躍した話を聞きました。境内を通って次に向かいます。
 ③ 戒光寺 泉涌寺塔頭。拝観無料です。庭の紅葉が我々を迎えてくれました。ここは運慶湛慶父子の合作である丈六の釈迦如来立像を本尊としています。後水尾天皇の身代わりになって傷を受けたという伝承があり「身代わり丈六さん」の名で信仰されています。丈六とは一丈六尺(約4.8m)の大きさの仏像のことです。如来の身長は一丈六尺あるとされたことから、仏像はこの大きさで造立することが一つの理想とされました。身代わりとなった首周りの傷跡や口元のひげのような文様は慈悲を説く口の動きを表すことなど仏像鑑賞のポイントの説明も受けてから拝観したのでよくわかりました。
 ④ 新善光寺 長野善光寺信仰が全国各地に普及し、その結果、誕生した仏教寺院のひとつです。ここは鎌倉時代に後嵯峨天皇が長野まで行くのが遠いということで建立されたそうです。ここも紅葉が観れます。
 ⑤ 今熊野観音寺 境内無料です。深紅の紅葉に取り囲まれた朱塗りの鳥居橋が印象的です。隠れた紅葉の名所で写真撮影スポットがたくさんありました。本堂には空海作の十一面観音像があります。

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 ⑥ 善能寺 境内の紅葉につられて予定外に立ち寄りました。門前の由来書きによると、本堂(祥空殿)は1971昭和46年)のばんだい号墜落事故遺族の寄進により、航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立されたものであるとのこと。
 ⑦ 来迎院 赤穂浪士の大石内蔵助が建立した茶室があります。境内では紅葉が楽しめました。
 ⑧ 泉涌寺(せんにゅうじ)真言宗泉涌寺派総本山。境内には入らず大門前でお寺の解説を聞きました。皇室の菩堤寺であり「御寺」として知られているとのこと。皇室は神道と深い関わりを持ってきたが、皇室自体は仏教に帰依しているとの説明を聞いて、神仏習合にも関係する深い話だと思いました。ここで12時となったので、昼食休憩をとって各自持参のお弁当を食べました。
 ⑨ 雲龍院 泉涌寺別院。拝観料400円を支払って入りました。入口でいただくリーフレットと『雲龍院の「へぇ~」のポイント』に沿って順路を回りました。各ポイントでも案内が工夫されていて、興味深く楽しむことができました。蓮華の間にある障子の四角いガラスから、椿、灯篭、楓、松の4枚の違った景色を眺める事ができるのが有名ですが、他にもどころが多いお寺です。私の一番のお気に入りは、「走り大黒天」です。左足を一歩前にだしているのは福をすぐに運ぼうとする様子を表しているそうです。境内をゆっくり鑑賞したあと、門を出て裏道を下ります。
 ⑩ 勝林寺 東福寺塔頭。毘沙門天象を本尊とし、東福寺の鬼門を守っているとされます。東門の入場受付の手前から紅葉の写真をとって引き返しました。

 東福寺への参道は大変な混雑が予想されるので、その手前でいったん解散となりましたが、ほぼ全員が引き続き参加したようです。ここからは、お寺に詳しい会員からの情報提供でお寺巡りを続けました。

 ⑪ 東福寺 臨済宗東福寺派大本山。京都五山のひとつで紅葉の名所です。特に臥雲橋(がうんきょう)から通天橋に向かっての眺めは素晴らしいものでした。紅葉も見頃でした。このあと、本堂のあるエリアに入り三門を目当てに進みました。ここの三門は禅寺としては日本最古で最大です。さらに、東司(とうす、大規模な共同トイレ)の内部を覗き込みました。2年前にニュースになった乗用車で木の扉が破損した事故の修繕跡も確認しました。本堂の中の釈迦三尊像を拝み天井画を覗き見ていたところで通り雨に遭いました。本堂の大きな軒下で雨をやりすごし、光明院の門前まで移動して15時前に解散となりました。 

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 以上、紅葉については、場所により早い遅いのばらつきもありましたが、見頃の所が多かったと思います。特に、午前中は晴れ間もあってきれいな写真がたくさん撮れたようです。
 松浦さんには、寺院の詳しい説明の他、紅葉の穴場的な鑑賞スポット、絶景写真の撮影ポイント、大勢でお弁当を食べられる場所など教えていただきました。ここでは著しきれませんでしたが、語源などのうんちくのお話、お勧めの食事処の紹介も挟んで、ユーモアのある話をたくさんしていただきました。何よりも、人通りの少ない安全な裏道を案内していただいて、団体がスムーズに移動できたことがよかったと思います。ありがとうございました。今回は団体行動なので混雑を避けて有料エリアはほとんど通り過ぎましたが、観光客が少ない新緑の頃にもう一度訪れたいと思いました。  (文/Y.K)

例会 11月7日(木)「岩船寺と浄瑠璃寺・当尾の石仏を巡る」の報告

 前日の天気予報は、曇りのち晴れ、最高気温13℃、北の風4mで、晴れたり曇ったりのひんやりした「立冬」らしい朝になりました。しかし、JR関西本線の遅れはあったものの、加茂駅前に会員41名と一般1名の計42名が集まり、小雨予報もあって参加者が10名と少なかった5年前とは様変わりでした。出発を前に、講師の山下さんから、かつて、明治の終わり頃に、ここから奈良に向けて「大仏鉄道」があったことが説明されました。

 9:44発の小型の木津市のコミュニティバスの後ろに「増便」された、我々の臨時の大型バスが続いて出発です。これは最大30名が定員のコミュニティバスの増発を、市に掛け合ってくださった澤田さんの労のおかげです。バスはくねくねの山道を、約20分をかけて「花の寺」としても著名な、創建729年の岩船寺に到着です。
 朝礼の後、早速、住職の法話を本堂の像高約3mの平安時代作の重文、阿弥陀如来坐像を前にお聞きしました。南山城や当尾の謂われ、とりわけ、奈良南都の仏僧の修行の地として、庵が寺院となり、伽藍や塔が山の尾根のように立ち並ぶさまが「塔尾」とされ、やがて「当尾」になったこと。そして、本尊の阿弥陀像は946年の作で、その107年後の平等院の像のような金箔の豪華な光背ではなく、衣の色も赤い先駆的な像であると話されました。ご住職からは、人は、いつも生かされていることに目覚め,生あるものは、仏に近い生き方を心に、不平不満を持たず感謝で生きるように、自分の生き方を学ぶ事が大切とのご法話でした。その後、本堂内の諸仏を拝観後、重文の「隅鬼」が印象的な三重塔を見下ろしながら広場でベンチに腰を下ろして昼食です。

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 午後は、膝を痛めている私や数人を残し、皆は境内の急な山道を登って「貝吹き岩」に向かいました。ここは、かつて、周辺にあったとされる39坊の僧を集める為に、この岩に上がってホラ貝を吹いた場所と伝えられている所です。年前と異なり、周囲の樹木が伐採されていて、正面に生駒山、右手に京都の愛宕山、生駒の向こうには北摂のポンポン山が一望のもとだったとの事、個人的には、無理しても登るべきだったかなとちょっと反省です。いっぽう、講師の山下さんから、人の心を癒してくれる花は、小さな仏様、とりわけお寺に多い睡蓮は4,5日咲いた後、枯れると水に沈み、醜い姿を見せないとのお話が印象的でした。また、余韻が素晴らしい響きの鐘をついて祈る方も多くいらっしゃいました。
 午後1時、この頃から陽射しも出て暖かくなってきて、本番の石仏巡りですが、人数が多く、人ひとりが通れる山の中の踏分け道は通らず、舗装された車道を歩いてミロクの辻を目指しました。途中、クコのピンクの花と赤い実などを観察しながら20分を歩きました。ここで岩に彫られた弥勒仏線彫摩崖仏、続いて代表的な「わらい仏」「ねむり仏」を訪ね、途中、立派なテングタケに歓声をあげながら「カラスの壺二尊」、「あたご灯篭」を経て「藪の中三尊摩崖仏」に至りました。岩船寺に次いで、ここでも、当尾名物の「吊り店」があって、実が黄色いキツネの頭のようなフォックスフェィスが人気商品でした。お値段は5年前と変わらず100円で、浄瑠璃寺に向かう道からは畑に栽培されているフォックスフェィスも見えました。
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 14:15
最終目的地の浄瑠璃寺に到着し、中島のある宝池の東側の三重塔で恒例の集合写真を撮影、その後、本堂前でご住職から、仏像の指の結び方を示す印相ほか、仏教知識を主にしたユーモアを交えた法話をお聞きしました。お話では、ここは京都府ではあるが、南に200mで奈良県になり、文化は奈良である。真言律宗の教えとして、命は東で生まれて薬師尊に送られ、西で阿弥陀尊に迎えられる。その為、まず三重塔の薬師如来を拝し、池の畔より、対岸の本堂の阿弥陀如来を拝するのが浄瑠璃寺での礼拝の姿だと言う。また、本尊の阿弥陀仏は九体あって、いずれかの仏が自分を迎える仏であるが、誰もどの仏かは分からないとのこと。そして、九品往生(くぼんおうじょう)の教えで、人それぞれ、その生き方で、下品下生(げぼんげしょう)から、上品上生まで九つの往生の仕方があるとの事です。九体仏は今では浄瑠璃寺だけになっているが、平安時代には30か所くらいがあって、そもそも、藤原道長が教えに熱心で初めて九体仏を祀ったとの事です。今も上品や下品と言う言葉の元はここに発するとの事には驚きました。本堂の拝観では吉祥天像も特別公開中でしたが15:15発の臨時便のバスに間に合うように急ぎ帰路につきました。

 講師を務めてただき、法話の依頼などして頂いた山下さん、バスの割引チケットなど手配して頂いた担当幹事の澤田さん有難うございました。   (文/赤對)

例会 10月29日(火)「京都一周トレイルを歩く(第4回)戸寺~二ノ瀬」の報告

 京都地下鉄国際会館駅に9時30分集合。参加者は19名。天気が心配でしたが、気象庁の天気予報では午前中は降水確率が30%となっており決行となった。但し午後の降水確率は80%であり、鞍馬駅までは何とかもって欲しいと思っていました。                          
 国際会館から大原行のバスに乗り、約20分、戸寺バス停で下車した。味工房志野(土産物屋)の駐車場に皆で集まる場所が有り、ここで讃良さんからコースの概要を説明され、コースに詳しい平井さんが詳細を説明された。先頭は平井さん、最後部は讃良さんが歩く。 

 コースは戸寺⇒江文神社⇒静原神社(隣接の公園で昼食)薬王坂地蔵寺叡電鞍馬駅二の瀬駅で、15時頃解散の予定です。                                                            
 10:10戸寺をスタートし、高野川を渡りのどかな農村の道を歩き、宮川一の橋付近で京都トレイル㉙10:22に通過しました。寂光院まで2.1km、三千院まで2.3kmの場所です。江文神社を目指して歩く。      
 10:31江文神社に到着。江文神社(えぶみじんじゃ)は大原郷八ヶ村の氏神である。もと毘沙門堂江文寺と合祀されていた。本社の祭神は倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)である。付近には写真に示す白い花の「ショウガ科のジンジャ」、黄色い花の「キク科ヤクシソウ」が咲いていました。

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 坂を上り、川を渡り、江文峠に着きました。静原から2.0kmの地点の標識があり、下鴨静原大原線(府道40号)に出ました。                                                         
 10:50道路を渡り、静原への山道を歩く予定でしたが、山道ルートは木材伐採の工事を行っていたため、府道を静原まで歩くことなりました。静原まで2.0kmの標識があり、車道の為、一列で車に気を付けて歩きました。途中の畑に野菜が沢山植えられ、京都北山の美味しい漬物になるのではと思いながら歩きました。大きな「へちま」も歩道の柵に絡んでいました。                                              

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 11:30静原神社に到着しました。天気は午前中もちましたが、午後から雨が降る可能性が高く、昼食を少し早くすませ、11:50集合と説明がありました。参拝して12:00スタートしました。静原神社は、古来、御本社に伊弘諾尊(イザナギノミコト)、奥御前には瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を祀ったため、合わせて『二宮社』とも呼ばれ、また天武天皇が逆徒に襲われた際、この地に難を避け、心身ともに静かに過ごされたために「静原」という地名が付けられたとのこと。和銅年(711年)祭祀が始まったと伝わっています。境内にはかなりの樹齢のスギの木がご神木として構えてました。                                                    
 薬王坂へは急な坂の為、休憩や給水を行い登った。薬王坂の峠には12:48に到着した。その後下り坂で地蔵寺を13:09に通過して鞍馬寺の入口13:16経て叡電鞍馬駅13:20で写真撮影を行う。叡電鞍馬駅で帰られる方もいましたが、二ノ瀬まで鞍馬街道を歩いた。電車、線路も情緒があり、何よりも雨が殆ど降らずに、二ノ瀬駅13:59に着いて解散となった。 

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 案内をしていただきました平井さん、讃良さんには感謝申し上げます。(文/永井)