当クラブの新年度(令和7年・2025年度)の総会が「ひと・まち交流館」3階第5会議室で10時30分から行われました。出席者は会員46名で会長委任の欠席者90名を合わせると過半数を超えましたので総会は成立しました。なお、新入会員17名のうち7名が出席でした。
昼食のあとの三十三間堂界隈の散策は自由参加でしたが35名の参加がありました。
「京(みやこ)とおうみ自然文化クラブ」は、認定NPO法人シニア自然大学校の京都府・滋賀県の地方組織です。旧ブログは左下リンク集より閲覧できます。
第21回総会の報告
当クラブの新年度(令和6年・2024年度)の総会が「ひと・まち交流館」3階第5会議室で10時30分から行われました。出席者は会員31名、会長委任の欠席者81名を合わせると過半数を超えましたので総会は成立しました。このほか新入会員9名はオブザーバーとして出席しました。
開始までの空き時間で昨年の活動を広報・井上さんが作成されたスライドショーで紹介しました。映像で見ると当時の活動が思い出されます。総会は、木全さんを司会に、議長に澤田勉さんを選出し議事を進めました。讃良前会長の挨拶では今年度は34人が入会されたことで、会員数は昨年度よりも21人多い154人になったとの報告がありました。
次に事務局・赤對さんから、令和5年度の活動報告がありました。年間の34件の行事に、延べ1024名の参加があり、1行事当たりの参加者は平均30.1名でした。ちなみに令和4年度は29件の行事に744名で1行事当たりの参加者は25.7名でした。
次いで会計・中林さんから会計報告、監事・吉田さんの監査報告があり、先の赤對さんの活動報告と合わせて承認されました。次に提案事項に入り、讃良前会長から今年度の役員体制案、続いて澤田章夫新会長から17名の新役員紹介のあと活動方針が述べられました。続いて、赤對さんからは今年度の行事計画案、中林さんからは予算案が示されましたが、出席者からの質問や意見はありませんでした。
最後に、澤田新会長から平成17年度から今年度までの役員(役付き幹事)の推移を紹介され、当クラブは大所帯となったが、きめ細かく運営していきたい旨の抱負を述べられました。
以上の流れをもって、総会は滞りなく11時15分頃に終了しました。
建仁寺界隈の散策報告
昼食のあとの建仁寺界隈の散策は自由参加でしたが36名が参加しました。曇り空の下、12時15分に交流館をスタート。高瀬川を渡り、銭湯「梅湯」を横目に細い路地を北上します。路地にはゲストハウスが軒を連ね、瀟洒な造りが京都の風情を醸し出しています。再び高瀬川沿いの道に出ると「源融の河原院跡」です。太いエノキの樹が目印。源融(みなもとのとおる)は平安時代初期に在位した嵯峨天皇の皇子。「六条河原院(かわらのいん)」は源融が賀茂川の西岸に造営した邸宅で、その敷地はたいへん広かったようですが、現在の街並みからは想像がつきません。
五条大橋を渡ったあと北上します。軒下に下げられた“京おどり”の提灯がいかにも京都らしい。しばらく歩いたあと東進し「子育て飴」の店の角を右折すると六波羅蜜寺です。空也上人が創建し西国三十三所の第17番札所。国宝の木造十一面観音立像は12年に一度辰年にのみ開帳される秘仏です。このほか重要文化財の空也上人像、伝・平清盛像など著名な仏像、肖像を有しています。また、ここのおみくじは生年月日と性別から1年の運勢を知ることができるユニークなものです。ぜひお試しあれ。
次に訪れたのは六道珍皇寺。臨済宗建仁寺派の寺院で小野篁が冥界(あの世)に通ったと伝わる井戸で知られています。最後に訪れたのは建仁寺。広い境内にびっくり。大きなしだれ桜が満開でとてもきれいでした。国宝の風神雷神図屏風や法堂の天井に描かれた双龍図などが有名ですが、このあとは思い思いに行動してもらうため、広場に集合して14時頃に解散となりました。筆者は本坊に入り、風神雷神図屏風や庭園、法堂の双龍図などを見学しました。
当クラブの新年度(令和5年・2023年度)の総会が「ひと・まち交流館」3階第5会議室で10:30から12:00にかけて行われました。出席者は新会員8名を含む31名で、委任状を合わせ総会は成立しました。
また、今年度の行事計画案、並びに、予算案が示され、質疑応答で、会員からは、予算に占める予備費が多い点について質問が出されました。会計担当の中林さんから、基本的には3年に亘ったコロナ禍で、行事実施が減少し経費が残った。しかし、4月以降、交通費の値上げや、会議室の有料化などの諸経費の増加が予想される中、本来は年会費の値上げの検討もされたが、当面は予備費を担保に年会費の据え置き維持となった旨の回答がされました。加えて、シニア自然大学校副代表の立場で、新谷さんから11月28日に大学校創設30周年記念講演会に雅楽師の東儀秀樹氏のご講演が決まり、鵜殿ヨシ原での当クラブの有志ボランティアによる保全活動ルートからの東儀氏招聘への協力に対し謝意が示されました。
昼食後、総会後の午後は自由参加で「渉成園散策」を案内いたしましたところ20名の参加となりました。総会会場より徒歩で10分ほどの場所です。その前に通り道の「文子=あやこ天満宮」に立ち寄りました。ここは学問の神様、菅原道真公の乳母・多治比文子が、邸宅に小さな祠を立てて道真公をお祀りしたのが始まりで天神信仰発祥の神社です、皆さん神殿に手を合わす。
「渉成園」は東本願寺の飛地境内地の庭園、「池泉式回遊式庭園」であり、今はサクラも終わりモミジの新緑とよく見ると小さな花が咲いていた。ゆっくりと散策する、立ち止まっての観察で進みが?それにしても「渉成園」別名「枳殻邸=きこくてい」の名が付いた、カラタチはどこにあったのかと思う。カラタチは実は入口近くにありました、小さな地味な白い花を観察し「総会」の1日を終えました。
(文 / 事務局:赤對、澤田章夫)
5月23日(月)午前10時半から3年ぶりの対面方式で第19回総会が開催されました。会場の壁面には、コロナ対策でコロナ前32行事が13行事に半減したものの平均参加者数は21⇒28人であったことが報告され、植物園研修会、例会、歴史散策、地域貢献などの活動の様子を撮影したスナップ写真がポスターで掲出されました。次いで、会計報告、役員選出、活動方針、予算計画などが提案され承認されました。最後に、出席者全員が自己紹介を行い和気あいあいに終了しました。
午後からは、コロナ対策で延期され三度目の正直となった、京都府立大学特任教授、佐藤洋一郎先生による公開講座「米の日本史」が開催されました。聴講者は会員33名に、一般参加者15名の計48名でした。
冒頭、一般参加で聴講に来られた、シニア自然大学校の代表理事の金戸千鶴子氏の、当クラブへのエールも含むご挨拶も頂きました。また、元東京芸大講師で雅楽協議会の鈴木先生も聴講に来られました。鈴木先生は、雅楽の篳篥のリードに使う、鵜殿のヨシ原の再生に取り組まれ、当クラブの有志もボランティアとして参加しています。先生は、古事記にも書かれたヨシの芽生え(葦牙:あしかび)と稲作の始まりへの関わりに関心を持たれています。なお、C14同位体含有量による地質調査では鵜殿ヨシ原は、3000年前に存在が確認されています。更に、佐藤先生が静岡県の自然博物館長を兼任されている関連で、高槻市立自然博物館の高田先生や、ほか環境保全関係、古代米栽培の方々も多く聴講されました。
この問いに答えるために米や稲作の歴史を俯瞰してみる。米食と稲作の変化からは、日本史を6つの時代に区分するのがよいように思われる。最初の時代は、米や稲作の影響がほとんどなかった時代で、弥生時代の中頃までの時期に相当する。
第2の時代が、米が国家を作りその国家が稲作を強力に推進した時代であった。この時代、米は軍事物資でもあった。
第3の時代は奈良時代ころ始まった。稲作は民営化し、有力な貴族や武士が米作りで力をつけていった。時代の後半、中世は厄災の時代であるともに現代の米食や稲作の文化の原型が形づくられた。そして戦国の時代は米が軍事物資として主役に座った時代でもあった。
第4の時代である江戸時代に入ると、米本位制がとられ米は貨幣の役割を担った。都市では米食文化が花開き、江戸市民は庶民を含め、現代東京人の5倍の一日750gもの米を食べていたという。茶の湯とともに花開いた和菓子の文化は米に支えられたが、同時にそれは日本人の美意識の結晶でもあった。同時にこの時代は、高い民度に支えられた水田の造営技術が花咲き、水田生態系が完成をみた時代でもあった。
第5の時代、明治時代に入ると、米は再び軍事物資になる。「富国(ふこく)」とは米の増産を意味した。「亀ノ尾」「旭」など時代を画する品種が続々登場したが、それらの生みの親は立派な顕彰碑の建立をもってその栄誉を称えられたのである。水利や農地の拡大に、文字通り命がけで挑んだ社会や個人があいついだ。稲作農家が一粒でも多く米をとろうと、地道な努力を続けたのもこの時代だ。このように俯瞰してみると、米と稲作は3000年にわたりさまざまな意味で日本人と日本社会を作る社会的な立場を与えられてきたことが改めて理解できる。
このように、いつの時代にも、その時代ならではの役割を与えられてきた米食と稲作は、1945年の終戦を契機に、そのあらゆる役割を一挙に失った。米は単なる食料と化したのだ。加えて1960年代中ごろからは米余りの時代となり、一人当たり年間消費量は半世紀の間に半減した。休耕田が増え、里地は荒れ、そこに野生動物が入り込んできた。農業の衰退である。里地の衰退は、陸域から海へのミネラルの供給を細め、里海を痩せさせる。現代の構造的不漁は、一面では人間活動の結果でもあると私は思う。米に代わり小麦の消費が増え、中食、外食の浸透で食の外部化が進んだ。これが第6の時代、つまり現代である。