10月になりやっと涼しくなり、古都奈良の佐紀盾列古墳群と平城跡のフイールドワークが行われました。どんより曇ったなか、近鉄平城駅に集合。22名の参加者。佐紀盾列の読み方は「さきたてなみ」或いは「たたなみ」だが、私は読めなかった。この漢字の読みと平城京のすぐ北の丘陵地の古墳群とが、結びつかなかった。当日は、11時頃まで小雨模様だったが、山下さんの名解説と皆さんの熱意で天気はよくなり、昼前から秋の清々しい古都平城京跡の見学ができた。
近鉄の線路を渡って、五社神(ごさし)古墳に向かう。宮内省管轄下の陵墓で、「狭城盾列池上陵」で神功皇后陵とされている所。説明板に「多他那美」「多多那美」とあった。佐紀も、狭城から転じた漢字とわかった。神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、夫の急死後に朝鮮半島に攻め入る軍船上で指揮をとったとされる人物(戦前の国史教科書で有名)。日本書紀では百歳。息子は第15代応神天皇で百十一歳、次代が第16代仁徳天皇とされる。応神以降の天皇陵は河内・和泉に移っていく。再び近鉄線路をこえて佐紀石塚山古墳へ、こちらは狭城盾列池後(いけじり)陵で第13代成務天皇陵。並んだ古墳が第12代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命陵(ひばすひめ)陵。三つの古墳が狭い所に固まって築造されていた。なぜ、第46代孝謙・重祚第48代称徳天皇陵がここにあるのか、不思議であった。ここには説明板もなかった。
山上八幡神社で小休憩。八幡神社は戦争と軍事の神を祀っている。奉納されている絵馬には戦さの場面の額が飾られていた。実物の神馬から絵馬への変遷、奈良の丹生川上神社下社、京都の貴船神社の説明も興味深かった。少し下った所の隆光上人の墓あり。江戸時代の将軍綱吉と母桂昌院との関係深く、東大寺大仏殿の再建や奈良の寺々の復興に尽力したとのこと。やや高台なので東大寺、若草山、高円山方面を見下ろせる地形であった。天気も回復してきて、心地よい秋のフイールドワークとなった。
住宅地にほぼ隣接するところに、平城宮第1号木簡出土地があった。今はススキや雑草のなか説明の石碑板が埋もれてしまっていた。木簡研究の方々にとっては、記念すべき場所であろう。草をかき分けて、参加者皆で確認。続いて第51代平城天皇の陵墓へ。784年に父第50代桓武天皇が長岡京へ遷都、794年に平安京に遷都するも、長男平城天皇は奈良にこだわって貴族間の抗争(藤原薬子の変)に発展した。桓武天皇の伏見柏原陵や弟の第52代嵯峨天皇は嵯峨北山陵と京都で葬られたが、平城天皇は平城京に隣接した楊柳陵(やまもも)に眠っている。この地はまっすぐに南下すると、内裏―第二次大極殿―東区朝堂院―朝集院の発掘された遺構が連なる場所であった。
昼食は、復元事業情報館。すぐ横にヨシの繁る場所があり、ツバメがワタリ前に集合する所で、ねぐら入りを見るフアンにとって絶好の地とのこと。野鳥好きの方は来年にはぜひ、この地を訪れたらよいと説明があった。
最初は第一次大極殿。国家的儀式をする場所で、南北320m✕東西180mの区画に復元されており、内部の見学ができる。ここの中央に「高御座(たかみくら)」が復元展示されていた。説明には復元にあたり、大正天皇即位時の高御座を参考にしたとあって、古代から近代までの詳細資料が不明とのこと、意外であった。上方の天井近くに色彩あざやかに、さまざまな動物が描かれており、四神十二支と説明があった。平城京跡の建築の復元工事が次々と進められているが、現代のさまざまな技術者たちが、知恵を絞って古代の技術者の仕事に向き合っていることが分かった。
第一次大極殿から東に向かう。第二次大極殿跡地で基壇のみ復元、さらに東に歩いていくと、推定宮内省の塀や建物の一部復元、さらに遺構展示館へ。発掘調査の時の遺構のようすが保存されて、ガラス越しに見られた。内裏で使った大きな木製の井戸が印象的。宮都であるので、天皇・貴族の使用する水の問題は重要だった。外に出て南下して、東院庭園へ。こちらはあまり見学者が気づかない所か、見学者がほとんど無かった。古代の日本庭園が広大な敷地に復元されていた。東宮(皇太子)の建物に隣接した場所で、迎賓館の役割を持った。池の中央に宴会用の建物があったが、八角形の柱で作られた隅楼が珍しかった。
東院からさらに南に近鉄線の踏切を渡り、朱雀門へ。第一次大極殿より真っすぐに南下すると、この朱雀門となる。朱雀門は、平城京の正門で左右に高さ6mの築地塀があった。
平城宮跡の見学の最後は、復元された遣唐使船の見学。意外に小さい船であって、これで百人以上の貴族や僧侶、船乗りを乗せて、竹の帆で外洋の東シナ海を渡れたか、と思ってしまった。

