秋晴れの良い天気だった。10月18日の午前10時、京都地下鉄今出川駅に33名が集合。本日の案内役はお馴染みの松浦さん。
応仁の乱は、14世紀の前半(1336年)足利尊氏が開いた室町幕府の中頃に起こった内乱である。応仁元年(1467年)に発生、文明9年(1477年)までの11年間にわたった。幕府管領家の畠山氏、斯波氏それぞれの家督争いから、東軍の細川勝元と西軍の山名宗全の勢力争いに発展し、八代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、全国に争いが拡大した。京都を焦土化しただけで、なんら勝敗を決することなく終結、戦国時代へ突入した時期である。
その時代背景を少し頭にいれながら、最初に訪れたのが「室町第跡」。三代将軍足利義満の館があった所で、室町殿あるいは花の御所と呼ばれた。乱の当時は、義政・富子夫婦が住んでいたという。大聖寺門跡との表札をくぐると花の御所を記した大きな石碑が樹々に隠れて置かれていた。
次に薩摩藩邸跡碑や藤原定家の子孫・冷泉家住宅の外観を見て回り、義満創建の相国寺(しょうこく)寺に入った。京都五山第二位の臨済宗寺院であり、八代将軍義政の墓と共に定家、伊藤若冲がまつられ、承天閣美術館(有料)を併設している。東軍の拠点となった当寺の伽藍はことごとく灰になった。松浦さんから、相の本来の意味は、木の目利きで、そこから人の目利き、国の目利きとなった。また、相をしょうと読むのは、首相・宰相と同じく、相国とは国を治める、助けるという意味があると聞き大変勉強になった。もともと創立当初は、約144万坪の寺域がある、広大な寺であった。現在は南に同志社大学、北に京都産業大学付属の中学・高校がある。現在の寺域は4万坪となっている。
応仁の乱発祥の地とされる上御霊(かみごりょう)神社がすぐ近くにあり、「こころしずめ」の社として有名。この西側の烏丸通を北へ上り、鞍馬口駅を左折すると幕末の薩摩藩士小松帯刀邸跡。薩長同盟の締結場所であり、近衛邸別邸(御花畑屋敷)とも呼ばれる。
小川児童公園で昼食後、上京区百々(どど)町の宝鏡寺へ。光厳天皇の皇女・恵厳禅尼が開山。その後歴代の皇女が入られ、別名「百々御所」とも呼ばれた。その縁で、代々の天皇が人形を贈られたため、人形の寺としても有名。人形供養祭は年1回行われる(本年は中止)。
寺を出てバス停堀川寺之内を南へ下ると山名宗全の屋敷跡。室町時代の守護大名で、応仁の乱では西軍の総大将。すぐ近くの京都市考古資料館の前に「西陣跡」の石碑がある。西陣・西陣織の名称も宗全率いる西軍が陣を敷いたことに由来する。
法華宗真門流総本家の本隆寺は1488年日真により建立。現存する本堂は江戸前期明暦3年(1657年)の再建で、入母屋造り、本瓦葺きの七間堂である。1788年天明の大火では西陣一帯が焼け野原となったが、本隆寺の本堂・祖師堂・宝庫は類焼をまぬがれた。このことから「焼けずの寺」の別称を持つ。京都の日蓮諸宗本山寺院では最古。本隆寺を南へ下ると「首途(かどで)八幡宮」がある。源義経が奥州への旅立ち前に祈願したところである。
応仁の乱発祥の地とされる上御霊(かみごりょう)神社がすぐ近くにあり、「こころしずめ」の社として有名。この西側の烏丸通を北へ上り、鞍馬口駅を左折すると幕末の薩摩藩士小松帯刀邸跡。薩長同盟の締結場所であり、近衛邸別邸(御花畑屋敷)とも呼ばれる。
小川児童公園で昼食後、上京区百々(どど)町の宝鏡寺へ。光厳天皇の皇女・恵厳禅尼が開山。その後歴代の皇女が入られ、別名「百々御所」とも呼ばれた。その縁で、代々の天皇が人形を贈られたため、人形の寺としても有名。人形供養祭は年1回行われる(本年は中止)。
寺を出てバス停堀川寺之内を南へ下ると山名宗全の屋敷跡。室町時代の守護大名で、応仁の乱では西軍の総大将。すぐ近くの京都市考古資料館の前に「西陣跡」の石碑がある。西陣・西陣織の名称も宗全率いる西軍が陣を敷いたことに由来する。
法華宗真門流総本家の本隆寺は1488年日真により建立。現存する本堂は江戸前期明暦3年(1657年)の再建で、入母屋造り、本瓦葺きの七間堂である。1788年天明の大火では西陣一帯が焼け野原となったが、本隆寺の本堂・祖師堂・宝庫は類焼をまぬがれた。このことから「焼けずの寺」の別称を持つ。京都の日蓮諸宗本山寺院では最古。本隆寺を南へ下ると「首途(かどで)八幡宮」がある。源義経が奥州への旅立ち前に祈願したところである。
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後鳥羽上皇の院御所として使われていたという「五辻(いつつじ)殿跡」も近い。石碑があり、五辻通×千本通の交差点には五辻の昆布・本店がある。京土産として有名らしい。十分ほど西へ歩くと大報恩時となる。国宝に指定されている千本釈迦堂である。鎌倉初期の安貞元年(1227年)、義空上人によって創建された。応仁の乱で唯一難を逃れた寺であり京都市街最古の木造建築である。ここで、境内のおかめの面について、松浦さんから、棟梁の永井高次と、妻、阿亀の天柱をめぐる話は印象深いものでした。最後に日本最古の花街・上七軒の街並みを通り抜け、帰途についた。(文/吉田)

