前日までのぐずついたお天気が一転晴れ渡りましたが少し寒さを感じる朝でした。京阪七条に集まったのは26名と一般1名の計27名。講師は、前回の「東寺周辺の散策」に続き山下さんです。
京阪七条の鴨川べりからスタートし、京阪電車の地下化に伴い暗渠化された琵琶湖疎水の上を歩き、やがて、正面通を東へ歩むと小高い「耳塚」が見えてきます。秀吉の朝鮮出兵は、現代から見れば明らかな侵略戦争で、むごい事ですが、せめてもの塚を造って「供養」した事が救いで、今は歴史の証人となって佇んでいます。ここから方広寺の大仏殿跡地に向かいますが、途中、正面橋からつづく参道跡で「大仏餅」の名が今も残っていました。
京阪七条駅
方広寺では、国内最大の重さを誇る鐘が出迎えてくれます。重さは、なんと日本一の82.7tですが、何といっても、鐘の銘文中の「国家安康 君臣豊楽」の8文字に家康が難癖を付け、やがて豊臣家滅亡に至らせたいわく付きの鐘です。尤も、皆さんの関心は「どうやってこの重い鐘を吊るしたのか?」でした。また、方広寺の大仏は、何度か作り替えられましたが、多くが「木造」であったのには意外で驚きました。それに、地震で壊れた初代大仏に、秀吉が「おのれの身も守れぬのか」と眉間に矢を放った、とのお話にはびっくりでした。豊国神社の秀吉像前で全員記念撮影を行い、大和大路を南に下り、私の30年来のお気に入りの餡子屋「味不二庵」の手前を東に折れ「太閤塀」を眺めます。ここでは秀吉の家紋の変遷を知りました。なんでも、農民の出で家紋が無く自分で勝手に作り、信長に大目玉を喰らったのは秀吉らしいですね。
そして今度は北に向かい、左手に「三十三間堂」を見ながら七条通りを右折、東大路を渡り、豊国廟参道に至ります。この辺りは、昔の京都の墓域で「鳥辺野」と言い、ここのほか「化野」「蓮台野」などがあり、普通の庶民は風葬が一般的であったとのお話です。本来のプランでは500段の階段を登って、秀吉の遺言での墓所、阿弥陀が峰から京都を一望俯瞰する予定でしたが、シニアの足腰に配慮し今回は見送りました。また、改築時に発掘された秀吉の棺の甕の中で、ミイラ化した秀吉が座っている様子を描いたイラストを見て、秀吉が好きだった京都の街を永遠に眺めているんだ、と思いました。それに、京都の人たちも秀吉贔屓だったようです。いっぽう、ふもとの「女坂」を走る京都女子大の送迎バスの「Princess Line」のロゴの入ったおしゃれなバスは、この辺りの墓域のイメージを払拭するような明るく生き生きして印象的でした。
少し戻って、東大路を南に下り、普段は、表しか通らない「智積院」の内側の参道を歩き、再び東大路に出て、JR線を下に見ながら近くの公園で三々五々のお弁当タイム。雨でなくてラッキーでした。
この後、最後の目的地の東福寺に向かいます。初めて知ったのですが東福寺は、奈良の東大寺の「東」と、興福寺の「福」を取って付けられたとの事、意外に安易なのに驚きです。長い参道を歩いて、青もみじの下を清らかに流れる清流「洗玉澗」に掛かる「通天橋」を遠望し、蓮池越しにそびえる2階建ての「三門」や、公衆トイレのような「東司」などが見れる興味深いコースです。また、お茶の木が植えられており、お茶の日本渡来が禅宗によるものだと思い出されました。それに、ずっと奥まで歩くと、一番上流にある「偃月橋」が静かに待ってくれていました。穴場のようです。
東福寺で解散後、JRの事故で、京阪も不通になり、JR組は京都駅まで歩くなどでやや歩き疲れましたが、爽やかで乾いた心地よい風の中の1日でした。山下さん、有難うございました。 (文/事務局KS)

