5月23日(月)午前10時半から3年ぶりの対面方式で第19回総会が開催されました。会場の壁面には、コロナ対策でコロナ前32行事が13行事に半減したものの平均参加者数は21⇒28人であったことが報告され、植物園研修会、例会、歴史散策、地域貢献などの活動の様子を撮影したスナップ写真がポスターで掲出されました。次いで、会計報告、役員選出、活動方針、予算計画などが提案され承認されました。最後に、出席者全員が自己紹介を行い和気あいあいに終了しました。
午後からは、コロナ対策で延期され三度目の正直となった、京都府立大学特任教授、佐藤洋一郎先生による公開講座「米の日本史」が開催されました。聴講者は会員33名に、一般参加者15名の計48名でした。
冒頭、一般参加で聴講に来られた、シニア自然大学校の代表理事の金戸千鶴子氏の、当クラブへのエールも含むご挨拶も頂きました。また、元東京芸大講師で雅楽協議会の鈴木先生も聴講に来られました。鈴木先生は、雅楽の篳篥のリードに使う、鵜殿のヨシ原の再生に取り組まれ、当クラブの有志もボランティアとして参加しています。先生は、古事記にも書かれたヨシの芽生え(葦牙:あしかび)と稲作の始まりへの関わりに関心を持たれています。なお、C14同位体含有量による地質調査では鵜殿ヨシ原は、3000年前に存在が確認されています。更に、佐藤先生が静岡県の自然博物館長を兼任されている関連で、高槻市立自然博物館の高田先生や、ほか環境保全関係、古代米栽培の方々も多く聴講されました。
この問いに答えるために米や稲作の歴史を俯瞰してみる。米食と稲作の変化からは、日本史を6つの時代に区分するのがよいように思われる。最初の時代は、米や稲作の影響がほとんどなかった時代で、弥生時代の中頃までの時期に相当する。
第2の時代が、米が国家を作りその国家が稲作を強力に推進した時代であった。この時代、米は軍事物資でもあった。
第3の時代は奈良時代ころ始まった。稲作は民営化し、有力な貴族や武士が米作りで力をつけていった。時代の後半、中世は厄災の時代であるともに現代の米食や稲作の文化の原型が形づくられた。そして戦国の時代は米が軍事物資として主役に座った時代でもあった。
第4の時代である江戸時代に入ると、米本位制がとられ米は貨幣の役割を担った。都市では米食文化が花開き、江戸市民は庶民を含め、現代東京人の5倍の一日750gもの米を食べていたという。茶の湯とともに花開いた和菓子の文化は米に支えられたが、同時にそれは日本人の美意識の結晶でもあった。同時にこの時代は、高い民度に支えられた水田の造営技術が花咲き、水田生態系が完成をみた時代でもあった。
第5の時代、明治時代に入ると、米は再び軍事物資になる。「富国(ふこく)」とは米の増産を意味した。「亀ノ尾」「旭」など時代を画する品種が続々登場したが、それらの生みの親は立派な顕彰碑の建立をもってその栄誉を称えられたのである。水利や農地の拡大に、文字通り命がけで挑んだ社会や個人があいついだ。稲作農家が一粒でも多く米をとろうと、地道な努力を続けたのもこの時代だ。このように俯瞰してみると、米と稲作は3000年にわたりさまざまな意味で日本人と日本社会を作る社会的な立場を与えられてきたことが改めて理解できる。
このように、いつの時代にも、その時代ならではの役割を与えられてきた米食と稲作は、1945年の終戦を契機に、そのあらゆる役割を一挙に失った。米は単なる食料と化したのだ。加えて1960年代中ごろからは米余りの時代となり、一人当たり年間消費量は半世紀の間に半減した。休耕田が増え、里地は荒れ、そこに野生動物が入り込んできた。農業の衰退である。里地の衰退は、陸域から海へのミネラルの供給を細め、里海を痩せさせる。現代の構造的不漁は、一面では人間活動の結果でもあると私は思う。米に代わり小麦の消費が増え、中食、外食の浸透で食の外部化が進んだ。これが第6の時代、つまり現代である。