京とおうみ自然文化クラブ

「京(みやこ)とおうみ自然文化クラブ」は、認定NPO法人シニア自然大学校の京都府・滋賀県の地方組織です。旧ブログは左下リンク集より閲覧できます。

例会 3月4日(火)「三井寺と大津歴史博物館の見学」の報告

 3月になっても小寒いうえ、前日に続く雨の日の例会でした。京阪石坂線の三井寺駅集合で、参加者が少ないのではないかと思っていたら、三井寺仁王門では合計27名でほぼいつもどおりの参加者となった。大津の町歩きは、前年に比叡山門前町の坂本に続いて、由緒ある歴史を学べた名寺院めぐりであった。後半の大津市歴史博物館では、三井寺でみた資料も展示されており興味深かった。三井寺のボランテイアガイドの方が、寒い雨の中だったがじつに丁寧な説明だった。

 ① 駅から琵琶湖疎水沿いをやや勾配のある道を歩く。例年なら桜のつぼみが膨らみ、開花直前の桜を期待するところだが、今年は遅いようだ。長等小学校グランドをすぎると、三尾神社の境内へ。うさぎの神社として有名。神社にはうさぎが祀られていた。
 ② 三井寺仁王門(大門)から入山。大門前に園城寺(おんじょうじ)石碑あり。なぜ園城をおんじょうと読むか。飛鳥から大津へ遷都したのが天武天皇(中大兄皇子)、子の大友皇子(弘文天皇)、その子が父の霊を慰めるため「田園城邑」を寄進して寺を創建したことに由来。7世紀後半というから古い。その後衰退するが、9世紀後半、比叡山延暦寺で円珍が園城寺初代長吏となり再建、その後円珍は第5代天台宗座主となった。が、天台宗第3代座主円仁派と円珍派が抗争して、円珍派が比叡山から降りて現在地に移る。叡山(山門派)と三井寺(寺門派)の激しい抗争が続いたとのことである。円珍は智証大師と号される。
 ③ 最初の見学地は釈迦堂。我々はとてもラッキーであった。釈迦堂(食堂/じきどう)の清凉寺式釈迦如来は普段公開されていないそうだ。ガイドさんも初めてとのこと。雨降りしきる中、釈迦堂に入って柔和な釈迦如来さんを拝むことができた。近江八景で知られた三井の晩鐘澤田さんが代表して晩鐘を撞く。三大晩鐘の一つで、宇治の平等院、高雄の神護寺と並ぶ名鐘、荘厳な音であった。
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 ④ 国宝の金堂に入る。金堂の本尊は弥勒菩薩像で、お参りしてから金堂内に入ってぐるりと廻る。興味深かったのは、多くの仏像の中で江戸時代の円空仏8体と、智証大師円珍の遣唐使で入唐した時のパスポートがあった。後者は、唐への入国に「越州都督府」で審査されて43歳円珍と50歳従者、ロバ2頭、経典・典籍・衣鉢の審査をされたもの。午後の大津市歴博に写真拡大の展示、翻刻があった。本堂の建物は国宝で、豊臣秀吉の妻北政所による寄進、1599(慶長4)年建築物とのこと。三井寺の建築物はすべて織田信長の比叡山焼き討ちで焼かれ、豊臣秀吉の闕所令(けっしょれい)で破却された。後に17世紀初期から徳川家によりほとんどが再建された。信長の焼き討ちなどは、安土桃山時代、江戸時代初期の建築様式を三井寺に残す結果になったのか。
 ⑤ 金堂横に閼伽井屋あり。「あかい」は仏に供える聖水の井戸で、左甚五郎作の伝承の龍の彫物があった。少し登ったところに弁慶の「引摺りの鐘」もあり、源平時代の伝説を伝えるもの。さらに進むと、経堂(一切蔵経を伝える)があった。経堂の内部に毛利輝元寄進の高麗版の一切蔵経が収納されていたと説明があった。
 ⑥ 三井寺の最も重要な「唐院」。ここには、徳川家康が1601(慶長6)年寄進した三重塔、塔は大和吉野の比蘇寺(大淀町)にあったものを移築。再建といっても他所のものを移した。後方の智証大師を祀る大師堂、大師の墓所の廟所、灌頂堂(密教の伝承道場)などが軒を連ねていた。
 ⑦ 唐院の四脚門を出て、村雲橋を渡る。南に進むと微妙寺があり、三井寺別院5箇寺の1つで本尊十一面観音。毘沙門堂を横に見て階段を登ると、観音堂でここは西国14番札所。33カ所巡礼の信者には聖地。本尊は33年に1回御開帳の如意輪観音(平安時代)。雨降りしきり、寒風吹きこの日はゆっくりと出来ず、観音堂を後にした。
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(写真はクリックで大きく表示されます)
 午前の三井寺見学は、ガイドさんの行き届いた説明があって有難かった。何度か訪れてはいたが、建物のおおざっぱな概観を見るだけであって、三井寺の由緒ある歴史を今回深く知ることが出来た。奈良時代以前の大津京のころの創建から平安時代の興隆の時期、戦国時代から江戸時代初期の再建の時期と、歴史をきざんだ寺を見つめなおせた。

 昼食後は、大津市歴史博物館に行き館内展示の見学を行った。ホールでの歴史博物館内の説明があった後、各自で自由参観。中世の堅田、坂本、近世の大津百町、近江八景、膳所藩、大津京の各コーナーを廻ることで、大津市の歴史を学べた。近江八景では「三井の晩鐘」の広重の大写しの画像が見られた。2023年5月にユネスコの「世界の記憶」登録に三井寺の「智証大師円珍関係文書典籍」が指定された。その関係の国宝資料の展示があって、金堂の「越州都督府過所」「尚書省司門過所」が詳しく解説されていた。  (文/木全)

研修会 2月25日(火)「季節の植物観察/スプリングエフェメラル」の報告

 参加者 会員28名、実習生5名、一般2名の合計35名
 天 気  晴れ
 案内役 大川内さん、齊藤弥壽彦さん
 昨日まで真冬の寒さだったが、今日は晴れて陽射しに春の訪れを感じるようだった。
<テ-マ>
 早春に咲く花や冬芽などについて。
 北門近くのガーデンにはさまざまなハボタンやパンジ-などが植えられ華やかだった。
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・ハボタン(アブラナ科)
 古い品種のキャベツ、またはケールが品種改良されたもの。気温が下がるとアントシアニンにより赤く色づく。
・スノ-ドロップ(ヒガンバナ科)
 花弁は雪のように白く、蕾はしずくの様。外花被3、内花被3の計6弁。夜には花弁を閉じ昼間ためた温かい空気を保存する。種子から花が咲くまで4年かかるので球根で増える事が多い。
・シクラメン(サクラソウ科)
 原種は、種を守るため花茎が種をくるくる巻く
・アブラチャン(クスノキ科)
 葉芽が細い枝先につきその根元に両腕を伸ばした、柄の先に丸い花芽がつく。
・クロモジ(クスノキ科)
 アブラチャンと同じ構造で花芽は丸いが先が尖る。
・ダンコウバイ(クスノキ科)
 花芽は丸く柄無し。枝に交互につく。いろいろと個性的である。
・アセビ(ツツジ科)
 壺型の花は口のところで浅く5裂。メシベ1,オシベ10。オシベには軟毛があり、根元に蜜があり、小型の鳥も密を吸いに来る。
・セツブンソウ(キンポウゲ科)
 白い弁はガク、約5から8片、ガクの方が寒さに強く長持ちする。花弁はY字型で先端は虫の好きな黄色。分岐部には蜜腺あり。オシベはやくが紫色でやがて白い花粉が出てくる。メシベ中央に2から5個。花のすぐ下には掌状に切れ込んだ総苞葉あり。セツブンソウは、林の木々が芽吹くまでに花を咲かせ実をつけ養分も蓄えなければならず忙しい。種子は足元に落ちる事が多いのは群生して目立たせる為。
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・フクジュソウ(キンポウゲ科)
 光沢のある黄色の花弁を陽射し、陽に応じて開閉する。花の中心にあるオシベ、メシベのあたりに日光を集めて温度を上げる。蜜が無くても虫が温まりに来て花粉を舐める。実験によると真っ暗であっても15度から20度で花弁が開くそうだ。芽が少し土から出た時、フキと似ているので注意。フクジユソウには毒性あり。
・セリバオウレン(キンポウゲ科)
 白い花びら状はガク。花弁はガクより短く細長いサジ形。オバナは全体に白く、両性花には白いオシベと中央に褐色のメシベが8個以上あり。葉はセリに似ており2回3出複葉。
・ナノハナ(アブラナ科)
 オシベ長い4本、短い2本。緑色の蜜腺がある。
・シナマンサク(マンサク科)
 黄色い4弁の花で花弁は細いひも状でねじれている。花が咲く前、花弁はガクの内部できちんと収納されている。マンサクの枝は強靭で腐りにくく、いかだを組んだり、白川郷の合掌造りに使われている。
・ロウバイ(ロウバイ科)
 甘い香りに虫も人も誘われる。花弁は黄色の蝋細工のよう。オシベは仮オシベを含め20以上あるのもあり。メシベも5から15個と多い。どちらも基部に軟毛あり。メシベが先に露出し、数日後にオシベが内側に湾曲してメシベを覆いその後花粉を出す。昨年の壺形の集合果は早春でもいくつか残り種が入っていた。
<集合果>メシベが複数あり複数の果実が集合して単一の果実に見える(例イチゴ)
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(写真はクリックで大きく表示されます)
 早春の花々や冬芽は工夫して精一杯生きており感心する。
 講師の方々には丁寧に教えて頂き有難うございました。      (文/新堀)

3月~6月の行事予定

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予定表はクリックで大きく表示されます

4月以降の雨天決行等の特記のない屋外行事は、
   前日21時前の
NHK天気予報や、前日17時
   の気象庁ホームページの天気予報で、行事
実施
      地域の午前中(気象庁ホームページは6~12
      時)の降水確率が
60%以上の場合、中止です。
      なお、
気象庁ホームページは当日の5時に更新
   されますが、その結果にかかわらず、前日17
   時の予報に従います。



公開講座(よもやま話)2月17日(月)「はっぱといもむし~京都府立植物園で見た生きもののつながり~」の報告

 翌日から寒波が予想されていましたが、当日は最高気温7.4.℃という比較的穏やかで午後1時30分から「ひと・まち交流館」で公開講座が行われました。参加者は会員28名、一般参加4名の計32名でした。多数の参加有難うございました。
 講師は当クラブ会員の「岡かおる」さん。岡さんには研修会での植物観察案内でもお世話になっております。また野鳥の会、森林インストラクタ-、自然保護活動など幅広く活動されておられます。記憶に新しいところでは2022年5月に「風呂敷の中の自然観察」と題して楽しく役に立つ風呂敷の利用方法などのお話をしていただきました。
 そして今回のテーマは「はっぱとイモムシ」です。ご承知の通り昨年9月に京都府立植物園のワイルドガ-デンに食草園エリアが設けられました。研修会でも何度か観察も致しましたイモムシにはびっくりもしますが楽しくもなります。サブタイトルを~京都府立植物園で見た生きもののつながり~とし、岡さんのイモムシ愛を感じるお話をお聞きしました。
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 まずは「イモムシって何の幼虫?」から。チョウ目のチョウやガの幼虫のことで日本にはチョウ約300種、ガ5500種がいるとのこと。イモムシの名の由来は漢字で「芋虫」イモの葉を食べるセスジスズメからついたと教えていただいた。また前部に3対6本の足、腹部に4対8本の足、後部に1対2本の足がある、なるほど!尚シャクトリムシは腹部の足が退化してないため前と後ろの足で特殊な歩き方をする、なるほど、なるほど!!
 そして「イモムシは何を食べる?」単食性と狭食性と広食性があるが単食性のイモムシは植物にはそれぞれに毒があり自分に見合ったものしか食べない、他の植物は餓死しても食べないらしい。
 チョウとガの一生と暮らし方は完全変態で、卵→幼虫→蛹→成虫と変化。幼虫と成虫で姿がガラリと変化する。
 次は京都府立植物園・食草園の植物とチョウの話。カラスザンショウはパイオニア植物で大きくなる、実は鳥にも人気。食草園には常緑のものが多い、トキワザンショウなど。コデマリにホシミスジ、ホトトギスにルリタテハ、ボタンボウフウにキアゲハなどの組み合わせ。
 そして個々のチョウとガの卵から成虫までの紹介。卵など微細なものも含め写真が鮮明でよくわかりました。チョウの幼虫は1齢から5、6齢で終齢に、ルリタテハの幼虫はJの字に似る。ジャコウアゲハの蛹は「お菊虫」と呼ばれ怪談、皿屋敷のお菊に由来するとのこと。ツマグロヒョウモンは南方系のチョウ、温暖化で北上。タテハチョウの仲間は6本足のうち前部の2本が退化して4本足に見える。
 そして「イモムシの天敵は?」・・鳥、カマキリ、クモ、ハチ、アリ、カエル、菌類そして寄生バチや寄生バエなど多種。
 「植物園で見られる植物、昆虫、鳥の関わり」さまざまで多種、季節により様々な共生関係が観察できる。
 「生きもののつながりを考える」例としてエノキには様々な野鳥や昆虫(ゴマダラチョウやタマムシ)が集まり生きもの生活空間、生きもの観察を楽しませてくれるなど紹介された。
 擬態する幼虫。枝と冬芽に化けたクワエダシャク、ヘビにそっくりのビロ-ドスズメ、クズの蕾に紛れるウラギンシジミなどを紹介いただいた、びっくり!!
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(写真はクリックで大きく表示されます)
 お話は永久保存版の配布資料にそった説明でしたので非常にわかり易かったと思いました。岡さん素晴らしい講義有難うございました。単なる知識だけでなく実際に幼虫から飼育された実経験に基づく内容をお聞かせいただき大変有意義で興味深い楽しいお話でした。またイモムシ図鑑や鳥の羽根標本など多数お持ちいただき興味深く拝見させていただきました。 (文/澤田章夫)

例会 1月30日(木)「秦氏ゆかりの地を巡る」の報告

 京都の太秦を起点に嵐山までの歴史散策です。時折雪が舞う薄曇りの寒い天気にもかかわらず、会員49名、一般参加2名の計51名の方が参加されました。案内は歴史に詳しい山下さん。地下鉄太秦天神川駅を地上に上がった広場に集合し、ここで山下さんから、太秦の名の由来について説明がありました。
 機織の技術集団であった渡来人の秦氏はヤマト王権へ絹や布を献上し、それらをうず高く積み上げていたことから、「兎豆満佐(うずまさ)」という姓を賜わった。そこから、拠点を表す「太」という漢字を当てはめ、「秦氏の拠点」を表す「太秦」になったとの説があるようです。このあと10時10分頃に出発。
① 木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社
 難しくて読めません。通称は木嶋(このしま)神社。推古天皇12年(604年)に広隆寺創建に伴い勧請されたともいわれています。本殿の右にある社殿は養蚕(こかい)神社、別名は蚕の社(かいこのやしろ)。この名の由来は、秦氏が養蚕と織物の神を祀ったのが始まりと伝えられています。「蚕の社」の由来がやっと分かりました。ここで山下さんから、社殿の屋根に直角に設置されている鰹木(かつおぎ)の本数から、この神 社が男性の神か女性の神かを見分ける方法を学びました。鰹木の本数が奇数ならば男性の神、偶数ならば女性の神です。
 本殿の西に建てられているのは京都三珍鳥居の一つの三柱鳥居(みはしらとりい)。三つの鳥居を正三角形に組み合わせた形で、中央の組石は神坐で、以前は三方向から拝めるようになっていたようです。鳥居の前にある池が元糺の池で、現在は枯渇しています。
② 大酒(おおさけ)神社
 祭神は秦の始皇帝、弓月君(ゆづきのきみ)、秦酒公(はたのさけきみ)。大酒神社は元来、広隆寺の桂宮院の境内に鎮守の社として祀られていましたが、明治元年の神仏分離令により現在の位置へ移転しました。八角柱の鳥居がユニークです。
③ 広隆寺  
 広隆寺では団体での見学はできないため、集合時間を決めての個別見学となりました。暗い講堂の奥に金網越しに阿弥陀如来坐像を見ることができました。広隆寺の現在のご本尊は聖徳太子ですが、603年に秦河勝が聖徳太子から賜った仏像をご本尊として建立した京都最古の寺です。その本尊が国宝指定第1号の弥勒菩薩像で、霊宝殿に収められています。霊宝殿には国宝20点、重文48点が収められており壮観です。有料ですが拝観をお勧めします。なお、国宝第1号の謂われは、指定当時、地図上で一番北にあって、南に行く毎に2号、3号となったためだそうです。
④ いさら井                                                      
 広隆寺の境内を出てしばらく歩くと、民家のそばに使われていない古びた井戸があります。元々は広隆寺の境内にありましたが、敷地の縮小により現在の場所に残りました。この井戸をいさら井と呼んでいますが、「いさら」とは古語で「少ない」という意味なので「いさら井」とは「水の量が少ない井戸」ということになります。一方で、いさら井はイスラエルがなまったものと捉え、日本人とユダヤ人とは祖先が同じではないかという日ユ同祖論という説もあるようです。   
 少し歩き、大映通り商店街を少し入った所にある三吉(さんきち)稲荷神社(通称、映画神社)に立ち寄ったあと各自での昼食タイムとなりました。
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⑤ 蛇塚古墳
 蛇塚の名称は、かつて石室内に蛇が多く棲息していたことに由来するそうです。京都府下最大で、全国的にも有数の規模を誇る横穴式石室をもつ前方後円墳ですが、住宅地の中にポツンと存在します。秦氏一族の族長クラスの墓といわれ、古墳時代後期の6世紀末から7世紀初頭に築造されたと考えられています、現在は、墳丘封土は失われ、露出した石室のみが残ります。石室の大きさは全国で4番目とのこと。
⑥ 車折(くるまざき)神社
 この神社の名前は、後嵯峨天皇が嵐山に遊行した際、社前で牛車の轅(ながえ)が折れ、動かなくなったことから、門前右側の石を「車折石」(くるまざきいし)と呼んで、「正一位車折大明神」の神号を贈られたことに由来します。そのため当社では「石」に対する信仰が厚く、神主がお祓いをした石が入ったお守り「祈念神石」は願い事を叶えるパワーストーン」として知られています。境内には、芸能の神様「アメノウズメノミコト」を祀った芸能神社があります。毎年多くの芸能人やアーティストがこの神社へ参拝し、芸名や劇団などの団体名を記した朱塗りの玉垣が多数奉納されており、華やかで目を奪われました。
⑦ 葛野大堰(かどのおおい)                                                        
 車折神社から20分ほど歩くと大堰川の河畔に出ました。遠くに嵐山の渡月橋が見えますが、河畔の冷たい風に当たり寒さは倍増です。観光客で混み合う渡月橋を渡り、右折して中之島の先端に行くと「一ノ井堰」と彫られた石碑があります。桂川は渡月橋付近で大堰(おおい)川と呼ばれていますが、これは5世紀後半に秦氏が葛野(かどの)地方に移り住み、渡月橋の付近で桂川の中に大きな堰を築いたためです。この堰が葛野大堰です。この堰で水をせき止めて水量を調節し、洪水を防ぐと同時に水路を設け農業用水を確保することができました。これにより嵯峨野や桂川右岸で農耕ができるようになりました。現在、秦氏が造った葛野大堰を原型に「一の井堰」が渡月橋上流に造られています。                    
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 ここで終礼が行われ14時40分頃に解散となりました。本日は太秦の由来や秦氏の功績などを知る良い機会でした。案内していただいた山下さん、ありがとうございました。   (文/讃良)