3月になっても小寒いうえ、前日に続く雨の日の例会でした。京阪石坂線の三井寺駅集合で、参加者が少ないのではないかと思っていたら、三井寺仁王門では合計27名でほぼいつもどおりの参加者となった。大津の町歩きは、前年に比叡山門前町の坂本に続いて、由緒ある歴史を学べた名寺院めぐりであった。後半の大津市歴史博物館では、三井寺でみた資料も展示されており興味深かった。三井寺のボランテイアガイドの方が、寒い雨の中だったがじつに丁寧な説明だった。
① 駅からは琵琶湖疎水沿いをやや勾配のある道を歩く。例年なら桜のつぼみが膨らみ、開花直前の桜を期待するところだが、今年は遅いようだ。長等小学校グランドをすぎると、三尾神社の境内へ。うさぎの神社として有名。神社にはうさぎが祀られていた。
② 三井寺仁王門(大門)から入山。大門前に園城寺(おんじょうじ)石碑あり。なぜ園城をおんじょうと読むか。飛鳥から大津へ遷都したのが天武天皇(中大兄皇子)、子の大友皇子(弘文天皇)、その子が父の霊を慰めるため「田園城邑」を寄進して寺を創建したことに由来。7世紀後半というから古い。その後衰退するが、9世紀後半、比叡山延暦寺で円珍が園城寺初代長吏となり再建、その後円珍は第5代天台宗座主となった。が、天台宗第3代座主円仁派と円珍派が抗争して、円珍派が比叡山から降りて現在地に移る。叡山(山門派)と三井寺(寺門派)の激しい抗争が続いたとのことである。円珍は智証大師と号される。
③ 最初の見学地は釈迦堂。我々はとてもラッキーであった。釈迦堂(食堂/じきどう)の清凉寺式釈迦如来は普段公開されていないそうだ。ガイドさんも初めてとのこと。雨降りしきる中、釈迦堂に入って柔和な釈迦如来さんを拝むことができた。近江八景で知られた三井の晩鐘。澤田さんが代表して晩鐘を撞く。三大晩鐘の一つで、宇治の平等院、高雄の神護寺と並ぶ名鐘、荘厳な音であった。
④ 国宝の金堂に入る。金堂の本尊は弥勒菩薩像で、お参りしてから金堂内に入ってぐるりと廻る。興味深かったのは、多くの仏像の中で江戸時代の円空仏8体と、智証大師円珍の遣唐使で入唐した時のパスポートがあった。後者は、唐への入国に「越州都督府」で審査されて43歳円珍と50歳従者、ロバ2頭、経典・典籍・衣鉢の審査をされたもの。午後の大津市歴博に写真拡大の展示、翻刻があった。本堂の建物は国宝で、豊臣秀吉の妻北政所による寄進、1599(慶長4)年建築物とのこと。三井寺の建築物はすべて織田信長の比叡山焼き討ちで焼かれ、豊臣秀吉の闕所令(けっしょれい)で破却された。後に17世紀初期から徳川家によりほとんどが再建された。信長の焼き討ちなどは、安土桃山時代、江戸時代初期の建築様式を三井寺に残す結果になったのか。
⑤ 金堂横に閼伽井屋あり。「あかい」は仏に供える聖水の井戸で、左甚五郎作の伝承の龍の彫物があった。少し登ったところに弁慶の「引摺りの鐘」もあり、源平時代の伝説を伝えるもの。さらに進むと、経堂(一切蔵経を伝える)があった。経堂の内部に毛利輝元寄進の高麗版の一切蔵経が収納されていたと説明があった。
⑥ 三井寺の最も重要な「唐院」。ここには、徳川家康が1601(慶長6)年寄進した三重塔、塔は大和吉野の比蘇寺(大淀町)にあったものを移築。再建といっても他所のものを移した。後方の智証大師を祀る大師堂、大師の墓所の廟所、灌頂堂(密教の伝承道場)などが軒を連ねていた。
⑦ 唐院の四脚門を出て、村雲橋を渡る。南に進むと微妙寺があり、三井寺別院5箇寺の1つで本尊十一面観音。毘沙門堂を横に見て階段を登ると、観音堂でここは西国14番札所。33カ所巡礼の信者には聖地。本尊は33年に1回御開帳の如意輪観音(平安時代)。雨降りしきり、寒風吹きこの日はゆっくりと出来ず、観音堂を後にした。
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午前の三井寺見学は、ガイドさんの行き届いた説明があって有難かった。何度か訪れてはいたが、建物のおおざっぱな概観を見るだけであって、三井寺の由緒ある歴史を今回深く知ることが出来た。奈良時代以前の大津京のころの創建から平安時代の興隆の時期、戦国時代から江戸時代初期の再建の時期と、歴史をきざんだ寺を見つめなおせた。 昼食後は、大津市歴史博物館に行き館内展示の見学を行った。ホールでの歴史博物館内の説明があった後、各自で自由参観。中世の堅田、坂本、近世の大津百町、近江八景、膳所藩、大津京の各コーナーを廻ることで、大津市の歴史を学べた。近江八景では「三井の晩鐘」の広重の大写しの画像が見られた。2023年5月にユネスコの「世界の記憶」登録に三井寺の「智証大師円珍関係文書典籍」が指定された。その関係の国宝資料の展示があって、金堂の「越州都督府過所」「尚書省司門過所」が詳しく解説されていた。 (文/木全)